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エントロピーが「時を戻す悪魔」を倒すまでの150年におよぶ戦い

とどめを刺したのは日本人研究者だった

自然界の多くは対称性をもっているのに、なぜ時間は一方向にしか流れないのか? 古来、物理学者たちを悩ませてきた究極の問い。ケンブリッジ大学宇宙理論センターでホーキング博士に師事し、薫陶を受けた若き物理学者が、理論物理学の最新知見を駆使して、この難問に挑む思考の旅へと発ちました。

第2回で相対性理論、第3回では量子力学と、近代物理学「2本柱」のエッセンスに触れながら、時間のことを少しずつ考えてきましたが、今回は「逆戻りなど絶対に許さん!」とばかり、「時間の門番」エントロピーが私たちの行く手に姿を現します。

「え、それってなに?」という人も、「知ってるつもりだけど、言われてみると……」「子どもに聞かれたら説明できるかな?」という人も、きっとわかる「なるほどエントロピー解説」は必読です。そして後半では、ある天才が生みだした「悪魔」と、エントロピーとの150年近くにおよぶ攻防が見ものです!

知ってるつもりの「エントロピー」

前々回前回でも気になる存在だった「時間の矢」が、今回はいよいよ、物理学の主役の座に躍り出てきます。

みなさんも「エントロピー」という言葉はご存じかと思います。ごく簡単に言ってしまえば、それは「乱雑さ」を表す概念です。「エントロピー増大の法則」といわれるものがあります。

「エントロピー増大の法則」とは

たとえばあなたがいま、ブラックコーヒーが入っているカップにミルクを垂らしたとします。ミルクは、最初は1ヵ所にしたたり落ち、そのあとうねうねとした模様を描きながら、しだいにカップ全体に広がって、コーヒーと混ざっていきます。

このとき、最初にミルクを垂らしたときのカップは「秩序が高い状態」で、そのあとミルクが混ざってぐちゃぐちゃになってきたカップは「秩序が低い状態」といえます。

最初にミルクを垂らしたときのカップは「秩序が高い状態」、ミルクが混ざってぐちゃぐちゃになってきたカップは「秩序が低い状態」といえる

エントロピーとは無秩序さ、つまり乱雑ぐあいを表す指標なので、秩序が高い状態はエントロピーが低く、秩序が低い状態は、エントロピーが高いというこになります。したがって、このコーヒーとミルクの話で言えば、「ミルクを混ぜる前と後で、カップの中のエントロピーは増大した」ということになります。

この「エントロピー増大の法則」は、物理学の「熱力学」という分野の基本的な大原則の1つであり、自然界のすべての物質がしたがう「超重要ルール」です。

エントロピー増大の法則は「宿敵」?!

そして、このエントロピー増大の法則は、宇宙全体にもおよんでいます。宇宙は、そのはじまりから、徐々に乱雑さを増していくように進化しました。

最初のほんのわずかな、宇宙の「種」ともいうべき秩序立った世界が急激に広がり、あちこちでガスが集まり、そこから星ができ、やがて星が集まって銀河ができ、さらに複雑な大規模構造ができていく――138億年かけて進んだこのような宇宙の発展は、無秩序な世界への移行でもあり、エントロピーが増大した結果なのです。

しかもエントロピーには、私たちが見逃せない性質があります。エントロピーは低いほうから高いほうへ増大するだけで、逆に減少することはありえないのです。そう、あたかも「時間の矢」のように、一方向にしか変化しないのです。

じつは物理学で時間の不可逆性が信じられているのは、まさにこのエントロピー増大の法則があるからなのです。両者は、表裏一体です。時間が逆戻りする可能性を探ろうとしている私たちにとっては、「宿敵」ともいえるかもしれません。

私たち「生物」はエントロピーに歯向かう反逆者

ところが、宇宙にはこの法則に抵抗している存在もあります。何だかわかりますか? それは私たち、生物です。私たちが生きているということは私たちの身体を一定の秩序ある状態に維持しているということです。この営みを、「恒常性の維持」といいます。

私たちにとっ て「死」とは、身体の秩序が保てなくなってエントロピーの増大に抗えなくなることです。生物はエントロピーが支配する宇宙の「時間の矢」に立ち向かい、真逆の方向に独自の「時間の矢」を発射しつづけている、いまのところわかっている唯一の存在なのです。がんばれ、生物!

いずれにしても、「時間の逆戻り」の可能性を探る旅に出たからには、私たちは一方向にしか変化しないエントロピーとの対決だけは絶対に避けることはできません。ならばいっそ、最大の難所の1つである峠の頂きまで、一気にめざしてみましょう!