Illustration by exdez / Getty Images

AIが奪うと言われていた「作業」こそ創造性につながる、という逆説

AIブームの次にくるもの 第4回!
AIが仕事を奪う。もはや聞き飽きた話かもしれないが、実際にはその「奪われるとされる仕事」こそが、人間にしかできない創造性に直結しているとしたら――。

新刊『人工知能に未来を託せますか?』が好評の松田雄馬氏による好評シリーズ、今回は「仕事」の構成要素である「作業」の本質を解明する。

一寸先が予測のできない現代社会を生きる私たちにとって、ほんの数ヵ月前の日常は、もはや遠い過去の非日常になってしまった。

今、私たちは、数ヵ月後の生活すら予想できないような時代を生きている。

世界規模での感染症の発生は、世界中の人々の生活を根本から覆した。新たな時代に向けて、私たちは、テクノロジーと共生しながら、創造性を発揮していくことがますます求められるといわれている。

さて、創造性の発揮という観点から、以下のような表現を、昨今、至るところで耳にする。

「単純作業はAIに任せて、人間はもっとクリエイティブな仕事に集中すべき」
「創造的でない単純作業を行う労働者は職を奪われる」

こうした意見を聞くたびに、筆者は疑問を感じてきた。

「創造的でない単純作業をAIに任せればいい」と簡単にいうが、人間の行う作業は、簡単にAI(人工知能)に置き換えられるような単純なものばかりなのだろうか。

人間がふだん何気なく行っていることがいかに創造的であるかについては、筆者は繰り返し記述している。

AIは馬を見てチョコレートを思い出す?

たとえば、人間と「AI」との違いを理解するために、人間にとって最も身近な行為の一つである「見る」ことについて紹介したい。

まず、人間でない機械はどのようにしてものを見ているだろうか。機械がものを「見る」ためには、最初にカメラという「目」を通して映像を取得する必要がある。

機械にとっての目であるカメラ(とくにデジタルカメラ)の仕組みと、人間の目の仕組みはよく似ている。

カメラのレンズで集められた光は、映像となって格子状に並んだ「画像センサー」に投影される。こうして映像は、格子状に並んだ画素(ピクセル)の集まりとして知覚される。人間の目に入る光もまた、網膜に並ぶ網膜細胞(画素に相当する)に投影される。

すなわち、機械の目も人間の目も、「画素の集まり」として、外界を知覚しているのである。

しかし、映像が「画素の集まり」として知覚されるだけでは、どこに何がいるかを認識することはできない。人間の目には明らかに「馬が2頭いる」とわかる映像であっても、機械にとっては、画素の集まりが知覚されるだけであり、そこに「馬」という情報を見出すことはできない(図)。

馬の映像を拡大してみると、そもそもどの画素が馬に対応していて、どの画素が背景に対応しているのかを「画素」という情報だけから判断するのは、容易でないことがわかる。

図 機械から見た世界

一方、人間は、たった1枚の写真から、2頭の馬が草を食べている様子や、背景に村があり、そのまた後ろに山があることを見出すことができる。

それだけでなく、2頭が仲よさそうに並んでいる様子から「ひょっとするとこの馬は親子かもしれない」「村民によって放牧されているのかもしれない」などという連想や空想を、無意識といってよいほど自然に行ってしまう。

見たり、感じたりといった、人間にとって当たり前のことは、機械にとってはまったく当たり前ではない行為なのである。

人間が感じる感覚は、身体を通じて「今、ここ」で得られる情報からつくり出される。これこそが、私たちにとっては当たり前すぎることであり、人間にとっての創造力の源泉でもある。

人間の何気ない「今、ここ」でしか得られない感覚から自由に想像力を発揮し、その場その場で発想を膨らませ、自分自身の思いで行動していくことができる。このこと自体が、機械にはない、人間の能力そのものといえる。