呉座勇一の直言「再論・俗流歴史本-井沢元彦氏の反論に接して」

なぜ持統天皇は初めて火葬されたか
呉座 勇一 プロフィール

奈良時代以前には貴人が亡くなった場合、殯(もがり)が行われた。

殯は、死人を埋葬するに先だって、仮の安置所に遺体を一定期間納めて、各種の儀式を行うことをいう。殯の期間、人々は死者との別れを嘆き悲しみ、また死者の復活を願う。

 

天武天皇が朱鳥元年(686)9月9日に崩御すると、盛大な殯が行われた。なんと天武の殯は2年2ヵ月にも及んだのである。9月11日から飛鳥浄御原宮の南庭で殯宮(皇族の棺を仮に安置しておく御殿)の造営が行われた。天武天皇の皇后だった鸕野皇后(のちの持統天皇)をはじめとする近親の女性たちは殯宮に籠って、天武の死を悼んだ。

また天武天皇の後継者である皇太子の草壁皇子は官人たちを率いて殯宮にしばしば足を運び、種々の喪葬儀礼を行っている。特に殯期間中に2回巡ってきた正月元日には、いずれも大規模な儀式を行っている。

天武天皇・持統天皇檜隈大内陵 拝所(photo via Wikimedia Commons)

もし井沢氏が説く通り、天皇が亡くなると周囲の空間どころか都全体がケガレによって汚染されてしまうとこの時代の人々が考えていたとしたら、上記のように長期にわたって殯を行うだろうか。これでは皇后・皇太子以下、全ての朝廷構成員が死穢に触れることになる。井沢説が正しいとしたら、死穢を恐れてすぐに遺体を埋葬するはずだ

飛鳥時代のケガレ意識の薄さは後の時代と比較すると、より明瞭に分かる。寛弘8年(1011)に一条天皇が病に倒れた。いよいよ臨終間近になると、左大臣の藤原道長は周囲にいた貴族たちに退出を命じた(『御堂関白記』・『権記』)。

天皇が亡くなった時に同じ空間にいると、死穢に触れたことになり、一定期間、朝廷に出仕できない。主要な貴族が軒並み謹慎という事態に陥れば、朝廷は機能停止してしまう。道長の命令は、死穢を避けるためのものである。

逆に言えば、飛鳥時代には天皇の遺骸と同じ空間にいることに、人々はそれほどの抵抗感を持たなかったのである。井沢氏は太古の昔から現代に至るまで日本人はケガレ意識を持っていると大ざっぱに捉えているようだが、現実には時代ごとにその濃淡は異なる。

その歴史的な変遷を明らかにすることこそが、歴史学の目指すところなのである。

持統天皇はなぜ火葬されたか

では持統天皇はなぜ火葬されたのだろうか。

単純に考えれば「持統天皇が仏教に帰依していたから」という答えになる。しかし、これでは身も蓋もない。それ以上の理由はないのだろうか。井沢氏は「首都を固定化するため」という突飛な「仮説」を唱えたが、上述のように従えない。

ところで持統天皇が、自分が死んだら火葬にしてくれと遺言したという史料はない。だから井沢氏が歴史学界の欠陥として常々指摘する「史料絶対主義」に基づけば、火葬が持統の遺志だったとは断定できない。

これに対し井沢氏は「火葬が根付いていない日本において、亡くなった天皇本人の意思があったということ以外に、天皇の遺骸を焼くことなどできるはずがない」と述べている(『日本史真髄』)。この発言には一理ある。

けれども、持統天皇が火葬にしろと遺言した史料が残っていないというだけであって、持統天皇の遺言じたいは歴史書『続日本紀』に記録されている。史料を無視して「推理」する前に、まずは史料を読むことが必要だろう