【戦場秘話】若き熱血軍医が見た「人間魚雷」回天特攻作戦の悲劇

幻の東京五輪代表候補だった慶應ボーイ
神立 尚紀 プロフィール

広島の被爆者の診療にあたる

陸に上がった梶原さんは、司令部の将兵の診療や、新しくできた小型潜水艦「波号第二百一型(潜高小型)」の換気の問題を研究したりしていたが、7月24日には呉軍港が壊滅的被害を受けた空襲に遭い、危うく難を逃れている。

 

8月6日――。

「この日は朝からカラッと晴れていました。潜水艦隊司令部では、いつも通りに朝食を済ませ、午前8時に軍艦旗を掲揚、課業開始の整列をしていた。そこに、空襲警報が鳴ったんです。お客さんはグラマンか?B-29か?などと言いながら、横穴防空壕にある診療室に駆け込みました。

敵機はB-29が2機とのことで、間もなく警報は解除になったんですが、そのうち、壕の中でもはっきりわかるほど、外が急に輝いた。大量のマグネシウムでも焚いたように思えましたよ。しばらくして、ズーンと、鼓膜を圧するような爆風が伝わってきました。

診療を終えて外に出ると、晴れ渡った空に黒々とした入道雲のような雲が見える。確かなことはわからないが、広島が大損害を受けたらしい。夜になって、司令部の情報将校のアメリカ生まれの中尉が、米軍の日本向け短波放送で、今日、広島に落とした爆弾は、『Atomic bomb』だと言っている、と教えてくれました。それで、あ、ついにやられたな、これは原子爆弾だぞ、と。

日本でも研究しているとうすうす聞いてはいましたが、敵に先を越されてしまった。絶望的なあきらめが、重く胸にのしかかるようでした」

梶原さんは翌朝、衛生兵2人を率いて広島に向かうが、市内の惨状は、3月の東京大空襲の再現のようであった。さらに8月9日には、長崎に原爆が投下される。

「呉にも広島の被爆者が運び込まれてきましたが、たいした火傷もないのに出血がひどく死ぬ人がいたり、母親に抱かれた無傷の赤ちゃんが急に死んだり、私たち医者の目から見ても不可解な症例が次々と見られ、原爆の恐ろしさを実感したものでした」

戦後は下町の「赤ひげ先生」となる

やがて、終戦。梶原さんは、満州からの引揚船の船医となり、その後、墨田区で小さな医院を開業した。情に厚い梶原さんは、地元の人たちから、「赤ひげ先生」と呼ばれ、長く慕われていたという。4月の早慶レガッタには必ず応援に駆けつけ、また、戦友会や慰霊祭にも熱心に参加を続けた。

筆者が梶原さんと初めて会ったのは1998年。東京・青山の伊藤忠本社の地下レストランで、毎月第四木曜日に行われていたネイビー会だった。ここには、慶應義塾大学出身者を中心に、旧海軍の学徒士官が集い、昔話に花を咲かせていた。

梶原貞信さん(2009年1月18日。NHK戦争証言アーカイブス『軍医が見た回天作戦』より)

梶原さんはこの会に欠かさず出席して、回天やボート部の思い出を語ったり、趣味のお茶を点てて仲間にふるまったりしていた。約10年、毎月のように会って話を聞くなかで、特に心に残った言葉がある。回天特攻隊でともに戦った戦友たちが高齢となり、訃報が続いた頃のこと。

「死ぬときは一緒、と誓い合った仲間が、寄る年波で次々と死んでいく。約束が違うじゃないか、といつも思う……寂しいよね」

――空襲で家を焼かれ、家族を失い、戦いで辛酸をなめ、忌まわしい思い出も多いはずなのに、青春の日、戦場で生死をともにした者同士の友情と結びつきは特別だった。その絆の強さは、平和な世で育った私たち戦後世代には想像もつかないものなのかもしれない。その梶原さんも、いまは亡い。

(※梶原さんの回天作戦中の貴重な証言は、NHKの戦争証言アーカイブスでも公開されています。
https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100507_00000