回天の発進テスト。樺島(山口県)にて

【戦場秘話】若き熱血軍医が見た「人間魚雷」回天特攻作戦の悲劇

幻の東京五輪代表候補だった慶應ボーイ
大戦末期、海軍の軍医でありながら、自ら進んで「人間魚雷」と呼ばれる特攻兵器「回天」の操縦訓練を受けた人がいた。かつて慶大ボート部で主将を務め、「早慶レガッタ」でも勇名を馳せた梶原貞信さんである。
「回天の搭乗員が病気になったら、代わりに俺が出る」――東京大空襲で家族を失い、回天作戦の潜水艦に乗組んで出撃した梶原さんは、若者に「死」を命じる極度の重圧から惑乱した潜水艦の艦長に代わって操艦を指揮、無事に内地に帰投させた。異色の「熱血軍医」が特攻作戦を通じて見たものとは?
 

慶大医学部卒業と同時に海軍の軍医中尉に

「回天特攻隊の潜水艦に、軍医長として乗組んで出撃する前、何度か艦長のお供をして上陸し、料亭で一緒に酒を飲んだんですが、艦長は周囲を気にしながら、『俺はあんな立派な若者たちを殺すことはできない。艦隊の水雷参謀は、回天を長距離魚雷のつもりで扱え、と言うが、彼らはモノじゃない。俺は苦しいんだ!』と、しばしば本音を漏らされていました」

と、梶原貞信さんは回想する。

「人間魚雷」とも呼ばれる回天は、日本海軍の誇る九三式三型魚雷(酸素魚雷=通常の魚雷のような白い航跡が出ない)を改造、直径を1メートルに拡大し、一人乗りの操縦席と、通常の魚雷の約二倍におよぶ1.5トンもの炸薬を装備した特攻兵器で、操縦席には特眼鏡と呼ばれる小型の潜望鏡を装備している。

回天一型。一人乗り、操縦可能な「目のある魚雷」である

人間の操縦で敵艦に突入する、いわば「目のある魚雷」で、命中すれば、搭乗員の命と引き換えに、いかなる大型艦も撃沈できると考えられていた。

梶原さんは大正8(1919)年、東京生まれ。慶應義塾大学医学部の学生時代はボート部の主将を務め、毎年4月に開催される「早慶レガッタ(対抗エイト)」でも勇名を馳せた。

昭和15(1940)年4月29日、梶原さんが選手として初めて参加した、隅田川の尾竹橋−梶原渡間3200メートルのコースで競われた第12回早慶レガッタでは慶應が勝ち、

「もし、この年の秋に開催するはずだった、幻の東京オリンピックが開催されていれば、慶應ボート部が代表に選ばれた」

と、梶原さんは言う。

自ら第一線への転勤を直訴

戦争で大学生の卒業が6ヵ月繰り上げられ、昭和18(1943)年を最後に早慶レガッタの公式戦は休止、梶原さんは昭和18年9月、大学を卒業すると同時に海軍に入り、軍医中尉に任官した。

「というのは、当時は『依託学生』という制度があって、卒業後、海軍に入る約束で、学費を援助してもらえたんです。それで、私のように実家が裕福でない者でも医学部に進むことができた。医学部を卒業して海軍に入ると、その日から軍医中尉です。大学ではなく医学専門学校を卒業した者は、軍医少尉からのスタートでした」

軍人としての基礎教育を3ヵ月受けたあと、昭和19(1944)年1月より、東京・築地の海軍軍医学校(跡地は現在、国立がん研究センター中央病院)で軍陣医学の講習を受け、同年3月、横須賀の野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)に配属される。

「松林と砂浜に恵まれた、海辺の静かな病院でしたが、間もなくサイパン島玉砕のニュースなどが入ってきて、焦りというか、こんな平和な病院にいていいのかと心苦しいような気がしていました。

そのうち、仲間の軍医中尉が一人、割腹自殺をした。彼は病弱で、前線勤務に堪えられないことを悲観したようです。私もしだいに思い余って、病院長に第一線への転勤を直訴しました。――この気持ちは、いまの若い人には理解してもらえんでしょうなあ」

そして、昭和19年11月7日、広島県の呉に本拠を置く第六艦隊(潜水艦部隊)司令部附となり、伊号第三百六十八潜水艦に乗艦を命じられる。この艦は、基準排水量1440トン、もとは物資輸送のために建造された「潜輸大型」と呼ばれる12隻の潜水艦のうちの一隻だったが、梶原さんが着任したときには、特攻兵器「回天」の母艦として使用されることが決まり、そのための訓練が始まっていた。

回天の訓練風景

ここで梶原さんは、軍医でありながら、自ら進んで回天の操縦訓練を受ける。軍医は本来、直接兵器を扱うことはないから、これはきわめて異例のことだった。

「ボート部の血が騒いだのと、私もこの戦争で死ぬつもりでいましたからね……。『もし搭乗員が病気になったら誰が行くんだ。そのときは、代わりに俺が乗って出るから』と、回天の操縦法を勉強し、訓練させてもらいました」