現在、山を愛するひとびとが、本書でいままで述べてきたような祖型への回帰や擬死再生を意識して登山を楽しんでいるわけではもちろんない。
しかし、なんとなくいつか〈帰る場所〉として山を感じ、愛好する人は多いだろう。人生に行き詰まった時に山に帰り、そこですべてを「リセット」して日常を生き直す。そこまでではなくとも、山が現代人にとってまた訪れたいと思う「リフレッシュ」の場であることは明らかである。
山の宗教をめぐる近代の言説が、陰に日向にそのような気分を強めてきた面があることは否めない。修験道の峰入は、山中における擬死の体験と母なる山の胎内における再生を表象する儀礼であるといった解釈は、そのような言説の典型であった。
しかしながら、このような文脈にせよ、山の宗教を語ることができるようになったのも、ようやく近年の話である。近代がいくら合理的な社会であるとはいえ、非合理的な存在を解消できたわけではない。死と生こそ、その最たるものであろう。しかしそれらには、合理的説明の環を性急に閉じようとするあまりに、とりあえず見えないように「異界」に押し込め、隠蔽しようとする心性が強く働いてきた。
たとえば、死。遺体は医療従事者や葬祭業者などの専門家に委ねられ、日本では死刑執行の実態も公開されることはない。死はきわめて見えにくくなった。
そして、生。死と背中合わせに存在する誕生もまた隠蔽されている。出産は病院で行うのが一般的となり、日常生活からは完全に隔離された。男性も分娩室で立ち会い出産が認められるようになったのは、ごく最近の出来事である。それでも男性にとって、なお出産について知らないことがらは多い。かくして死と同じく誕生もまた、「異界」に押し込められてきたのである。
このように、日常生活から切り離されたさまざまな非合理性が押し込められた先こそ、近代の山の宗教だったのではないだろうか。山は、隠蔽されることによって希薄となった生死を再確認する異界であると考えれば、近代の宗教民俗学が擬死再生の理論を楯にその中に切り込もうとしたことは、決して的外れな試みではなかったことになる。
現代に生きる我々が山の聖域性をことさらに強調し、そこに異界を見ようとするとき、同時にその心性が近代の合理主義によってさまざまな方向から圧力をかけられ、ゆがめられた歴史の上に最終的に立ち上がってくる、きわめて近代的なイメージに強く支配されていることを思い知らなければならない。