その後、機会があるたびに、私はそのときのエピソードを引いて、相続というのは、週刊誌で特集されているような、土地や株などの物質的な財産だけではない。目に見えない財産を相続することも、相続のうちにはいるのだ、と話をしたりしたのです。
そうこうしているあいだに、急にいろいろなところからの講演の依頼がふえてきました。おそらく私の話を聞いた人びとが、それぞれ持ち帰り、講演の内容に興味を覚えはじめたのでしょうか。
弁護士や計理士などの専門家を呼んで、経済に関する話をしてもらうことも大事だけれど、それだけではリアルすぎるから、箸休め的に私の話を挟んだらどうかということになったのかもしれません。
こうした話をしながら、私はつねに考えていました。では、自分は、両親から何を相続したのだろうか。
引揚者の我が家は、生活に苦労していたので、財産どころか借金を相続しかねない暮らしでした。私は、敗戦のとき、北朝鮮の平壌に住んでいました。そこでソ連軍の第一線部隊から大きな被害をうけ、病弱だった母を失い、裸一貫で引き揚げてきた引揚者です。
そのショックで無気力になった父と幼い弟妹とともに、当時、わずか十三歳の中学生だった私は、必死で脱北をはたし故国へ帰ってきたのでした。引き揚げてのちも、生活の苦労はついてまわり、父は不遇なまま一生を終えました。
ですから長い間、私は親から何一つ相続していない、と思いこんでいたのです。
しかし、最近、夜中に目が覚めたときなどに、つらつらと来し方行く先に思いをめぐらせていますと、「いや、そうではないのではないか」という思いがしきりにこみ上げてくるようになりました。
考えてみれば、目に見えないものを受け継いでいるのかもしれない、という気が少しずつ大きくなってきたのです。そんなことを考えていると、
「自分は、じつは相当なものを相続していたんだな」
と思えるようになっていました。
「こころの相続」とはそういうことです。
ちょっと優等生的すぎるかなと思いつつ、ほかにいい言葉が見つからないので、金や土地の相続より大事な相続について考えてみることにしたのです。