昨年の後半、まだ新型コロナウイルスの騒ぎがおこる前のことですが、あまり縁のないところからしきりと講演の依頼がくるようになりました。
これまで、ほとんど縁のなかった分野の業界からなので不思議に思いました。経済団体とか、新聞社・雑誌社の経営セミナーとか、ときには信託銀行などの企業です。私は、ふだんは文化ホールや学校、また地方の公民館や、お寺さんなどで話をすることがほとんどです。経済やビジネスの世界などにはほとんど関係がないので、けげんな気がしました。
それでも頼まれれば出かけていきます。私は講演というか、人に話をすることを文章を書くことと同じように、あるいはそれ以上に、大事な仕事だと思ってきたからです。
しかし、行ってみて、改めて戸惑うことが多い。いわゆる文化講演会ではなく、何時間もプログラムされたセミナーの一部だったりするからです。前後には、専門の評論家や経済学者などの名前が並んでいる。ときには竹中平蔵さんなどという、著名なゲストの名前が並ぶこともありました。
そんな場ちがいな場所で、小説家にどういう話をさせようというのか。
演題を見ると、どうやら、「相続」に関するもののようです。集まっている聴衆は、相続問題について勉強をしようという人びとであるらしい。私はいつも即興で喋るので、タイトルはほとんど気にしていません。ただ、それにしても「相続」がテーマとはどういうことか。そこで、担当者に尋ねました。
「どうしてぼくがこういう会に呼ばれたんでしょうか」
すると相手はうなずいて、
「五木さんが先ごろ経済雑誌のインタヴューでお話しになっていたことに、各方面から非常に関心が集まっておりまして」
「ぼくがどんな話をしたんでしょうね」
「魚の骨ですよ。あれは私もなるほどと、すこぶる共感いたしました」
「え? 魚の骨?」
「ほら、若い女性編集者が、秋刀魚の焼いたのを見事に綺麗に食べる話」
「ふーん」
そう言われてみれば、そんな話をしたような気がします。
あるとき、出版社との打合わせのあとで、近くの食堂で編集者数人と食事をしたときのエピソードです。
その中に二十代と思われる新人の女性編集者がいて 、控え目にみなの話を聞いていたのです。なよなよした感じの全然ない、ボーイッシュな娘さんでした。食事のあと、彼女の前のお皿を見て、ひどく感心したのです。