昭和19年11月、爆弾を搭載してフィリピン・マニラの湾岸道路を特攻出撃する零戦

5度の出撃から奇跡的に生還した少年特攻隊員が明かした建前と本音

号泣しながら突入した仲間もいた
平成30(2018)年2月22日、一人の元特攻隊員が91歳で世を去った。小貫貞雄(こぬき・さだお。戦後、杉田と改姓)。18歳で零戦搭乗員として第一線部隊に配属、激戦地フィリピンに送り込まれ、特攻隊員となる。
米軍の沖縄侵攻が始まると、台湾を拠点に、爆弾を搭載した零戦で5度にわたって特攻出撃を重ねたが、いずれも敵艦隊に遭遇することなく、奇跡的に生還した。爆装出撃5回というのは、公式記録で確認できる限り、生き残った海軍特攻隊員のなかでは最多である。
小貫は生前、筆者に、特攻志願から出撃、生還、そして終戦にいたるまでの率直な心情を吐露していた。絶望的な戦況のなか、少年は「死」を目前に何を思い、感じていたのか。
 

「同調圧力」に屈して志願した18歳

「諸君は空の神兵(しんぺい)である。ただいまより特別攻撃隊員を募集する。我と思わん者は一歩前へ出よ」

第二航空艦隊司令長官・福留繁中将の訓示に、一瞬、その場が凍りついた。

フィリピン、クラーク・フィールドのアンヘレス北飛行場。ぎらぎらと太陽が照りつける草原の滑走路に整列した搭乗員たちは皆、顔は前を向いたまま、目だけをきょろきょろさせて、周囲の様子をうかがっていた。そして数秒。沈黙に耐えかねた誰かが前に出ると、それにつられて全員が、ぞろぞろと重い一歩を踏み出した。

第二航空艦隊司令長官・福留繁中将が、整列した特攻隊員を前に訓示する。小貫貞雄はこのなかにいた

爆弾を搭載した飛行機による体当り攻撃、すなわち特攻が本格化しつつあった、昭和19(1944)年10月末のことである。

18歳の小貫貞雄(戦後、杉田と改姓)飛行兵長も、雰囲気に引きずられて一歩前に出た。いま風に言えば「同調圧力」に屈したのだ。しまったと思ったが、もう後戻りはできなかった。

「ありがとう、ありがとう。だがこれでは志願者が多すぎて選びようがない。いずれ選考のうえ連絡するから、ひとまず宿舎に帰って休むように」
 
と言って、福留中将は、ハンカチでそっと目頭を押さえる仕草をした。

小貫は、大正15(1926)年3月23日、宮城県に、鉄道員の次男として生まれた。軍艦に憧れて海軍一般志願兵を受験したが、成績がよかったので、試験官の勧めで飛行兵志望に切り換える。そして昭和18(1943)年6月、村人たちの盛大な見送りを受けて、乙種飛行予科練習生(特)、通称「特乙(とくおつ)」の二期生として、山口県の岩国海軍航空隊に入隊した。

昭和18年、予科練時代。岩国基地にて

「特乙」とは、乙種予科練(受験資格は高等小学校卒業以上)の合格者のなかから生年月日の早い者を選抜、速成教育を施すために新設されたコースで、小貫も、「殴られて体で覚える」すさまじい詰め込み教育に耐え、海軍に入ってわずか9ヵ月後の昭和19(1944)年3月には零戦搭乗員として実戦部隊に配属される。

最初に配属された実戦部隊、第三六一海軍航空隊「晃」部隊の頃。左端が小貫。昭和19年5月、鹿児島基地にて。バックは桜島

同年10月には、米軍の大部隊がレイテ島に上陸したのを受け、零戦で編成された第二二一海軍航空隊(二二一空)の一員として、日米決戦を目前に控えたフィリピンに送り込まれていた。

「二二一空は制空部隊なので、連日の邀撃(ようげき)戦に参加しましたが、車で言えばまだ初心者マークをつけているようなもので、一番機から離れないよう飛ぶのが精いっぱいでした。私の小隊長の石原泉上飛曹が、『初心者が後ろで引き金(機銃の発射レバー)を握っていたら俺が危ない。お前は機銃は撃たなくていいから、とにかく離れずについて来い』と注意してくれましたが、編隊からはぐれると必ずやられますよ。それで機銃も撃たず、尾翼に被弾して還ってきたのが私の初陣でした。

何度かグラマンF6Fと空戦をやって、最初は体が震えて困りましたが、これが武者震いか、とやせ我慢しているうちに、だんだん戦場に慣れてきます。そして、仲間がちらほらやられるようになると、クソ度胸がついてきて、敵愾心が湧いてくる。俺は負けない、と、いっぱしの戦闘機乗りとしての意識が芽生えてくるんです」