第1回:セクハラ、心不全、せん妄の父…介護は先の見えないサバイバルです
第2回:介護は一歩間違えると底なし沼。「父を殺して私も死ぬ」と叫んだ夜
私がキレた後も、リハビリ病院の父は相変わらずだったが、病院側の対応が変わった。私が居ない時間のために、2人のボランティアをお願いしてくれた。週2回、1時間ずつ、英語でしゃべることができる。
私のほうは、父を説得するための詭弁が冴えてきた。たとえば父は「立ち上がり」が悪い。ベッドや車椅子から立ち上がるのが困難なのだ。父ほどの年齢になると、脳には小さな脳卒中の痕跡が累々と残っている。その後遺症で立ち上がりにくいのを、本人は認めようとしない。
「92年生きてきて、ずっとこうだったよ。それにこの忌々しい日本の椅子が悪い」
車椅子に八つ当たりをする。
「法王様だって車椅子じゃないの」
熱心なカトリックの父には、法王の例が効く。さらに付け加えた。昔は車椅子に乗る年齢に達する人は少なかった。不愉快なモノを使って長生きするか、それとも若死にか。何としても生きたい父は、そこで納得する。
ぐずる父をなだめすかしている間に、今後に向けての話し合いが進められていった。自宅に戻るためには、一時退院を繰り返す。ふらつきはあるものの、歩行が以前より安定してきた父は、つかまるところがあれば歩けなくもない。
病院と自宅の間に「老健」でさらに数ヵ月のリハビリを加える手もあるが、ベッドが空いている保証はない。その場しのぎとして有料老人ホームの体験入所を用いることもできる。
実際、3月から父の週末の帰宅が始まった。その頃の私は、パン屋の呼び込みに思わず立ち止まったことがある。
「認知症に効くメロンパンをどうぞ!」
人気商品メロンパン、を聞き違えていた。
灰色の日々が、一瞬だけピンクに染まったこともある。4月に入って桜の季節となっていた。
病院からほど遠からぬ称名寺は、行ったことはないが、桜の名所と知っていた。
ある晴れた日の午後、発作的に花見をする気になった。外出の許可は取っていない。病院に横付けしているタクシーに、パジャマ姿の父と車椅子を乗せた。10分もかからなかった。
寺の薄墨色を中心に、境内の広々とした池を、桜が取り囲んでいる。音もなく散る花びらの雨を、父と浴びた。極楽浄土に遊ぶ思いがした。父もかつて見せたことのない穏やかな表情をしていた。
5月に入り、退院が具体化してきた。同時に、ショートステイ用の老人ホームを紹介してもらった。病院からホームを経て自宅、と言う組み立てである。
出来たばかりの施設で、馬車道を少し外れて、港に近い、閑静な場所にある。入居者3人に対して職員が2人、というのは目が行き届いている。看護師は英語ができる。
館内を見学していて、父の教会仲間の女性から声をかけられた。U子さんは93歳で、こちらの入居者である。
「あなたがお入りになりたいの?」
のっけからアッパーカットをくらった。父のショートスティを考えている、と伝えた。
「社交的な人にはこちらは向きません」
1人でふらりと散歩も出来ない。人に頼んで時間を決めて、車椅子に乗せられる。
「ご両親で入られるの?」
わが家にはわが家の事情がある。しかし「父だけ」と答える自分が人非人に思えた。U子さんは目を見開いて私の顔を直視した。
「あなた、本当にお父様を手渡してもよろしいの?」
答えられなかった私は、無意識のうちに、父がホームに居続けてくれれば、と願っていたのかもしれない。その夜は鬱で頭が上がらなかった。