第1回:セクハラ、心不全、せん妄の父…介護は先の見えないサバイバルです
2005年10月20日に入院した父は、11月に入ると落ち着いてきた。とはいえ、病室で私は相変わらず様々な迎えられ方をしていた。腕を酒瓶と間違えられたのに比べればマシだが、代わる代わる本人の母、姉、妻になった。
「息子のジョー」というのも多かった。ジョーは父の弟の名前である。父のモーローとした頭では、ショートカットでジーパンの私は男、と決まったらしい。
どうせ縁の薄い親子である。息子で構わないが、困ったのは退院が見えてきたことだ。入院先はいわゆる「急性期病院」で、短期の入院患者を扱う。短期とは10日から2週間。つまり回転が早いのだ。そして父の心臓は、脈拍が異常に遅いことを別にすれば、ほぼ元に戻っていた。リハビリ科の先生との話し合いが持たれた。
91歳での入院は、臓器が回復しても、急激に落ちた脚力は失われたままだ。2~3週間のリハビリで伝い歩きができるかもしれないが、父の場合、歩くためには2人の助っ人が必要になる。一人が手を引き、もう一人が後ろから腰を支えて付いていく。
たしかにわが家は、理論的には父の他に2人いる。母と私が父の歩行を補助すればよい。だが現実には母の腰は二つに折れている。私には仕事がある。
病院には患者相談室が付いている。有料ホームのショートステイや、リハビリをする温泉病院などを提案してくれた。ショートステイでは普通リハビリまではやらない。温泉病院は海の側や山の中で、私の通える範囲内ではない。
患者相談室で、この時紹介された「ケアマネさん」(ケアマネージャー)が、その後母が亡くなるまでわが家を担当してくれることになるのだから、入院先のA病院に今では感謝している。が、当時は、治らないうちに「追い出される」というのが正直な感想で、父がこのまま家に戻れば寝たきりになるのは目に見えていた。
そのようにして寝たきりになる人は、少なからず居るはずだ。介護は一歩間違えると底なし沼、という実感を得た。
病院が助けてくれないのなら、実力行使あるのみ。私はわが家のホームドクターに「脅迫」の電話を入れた。A病院の次に入れる病院を紹介してくれないのなら、退院した父を先生の医院の軒先に置き去りにする。捨て子ならぬ捨て爺である。
あっという間に次のB病院が決まった。おまけにAよりもBのほうが自宅に近い。
11月15日に転院と決まり、前日の夜は引越しの荷造りに追われた。話し相手もせずに動き回る私に、父が声をかけた。
「何なら、手伝ってやろうか」
聞いた瞬間は固まった。歩くのですら補助が二人必要な父である。「老い」とは何か、この時の父に教えられた。自分が出来ない、ということが分からないし、納得できない。歳を取ったと嘆くうちは、まだ老人とは言えない。
その意味で、母もまた老人になっていた。父がB病院で落ち着くのと同時進行で、介護保険の話が進んでいた。ある夜、地域ケアプラザから私の研究室に電話が入った。母がヘルパーなどの援助は不要、と主張し、話し合い拒否だという。
母との電話のやり取りになった。
「お父さんを助けてちょうだい。私は何の手助けもいらないから」
その日の母の夕食は、朝のうちに私が準備しておいた。そういう手間が省ければ私が楽になる、と答えたが聞く耳を持たない。
再び地域ケアプラザの担当者と母のやり取りになった。程なく担当者から電話が来た。父を助けるためには母の意見が必要、と説得したところ、あっさり面談に応じることになったという。さすがプロは事の運びがうまい。
B病院の父は、酒で倒れたのを不思議がり、年齢としては「適切な」飲酒量だったと主張する。40度の酒を3分の1に割っていたという。
「朝からビール飲んでたじゃない」
「ビールはアルコールじゃない。それに酒のコントロールを無くしたことなんてない。ところで僕はいつまでここに居るのかな?」
これも老いの特徴なのだが、元気な自分が不当にも病院に閉じ込められている、という考え方をする。