その翌日。激しく崩れ落ちた父は、回復も早かった。
「俺は殺そうとしても殺せないタイプの男さ」
言葉だけは勇ましい。サイドテーブルに夕食が来た。食べさせ始めたが、私の座っている椅子からは距離がある。そこでベッドに横坐りになり、スプーンを使ってみた。
「おや、私のお嬢ちゃんじゃないか!」
酒瓶から娘に復帰した。かと思うと、普段の饒舌が少し戻り、しゃべっている途中できょとんと私を眺め、言ったものだ。
「ヨーロッパ人みたいな方ですね」
「そりゃそうでしょ。私はあなたの娘なのですから」
さすがに「しまった」という顔をしていた。
その晩は飲み過ぎた自分を反省して見せたが、「酒はふさわしいものではなかった」「そもそも酒は旨くない」と平然と言い切るのには唖然とした。今からはパーフェクトに生きる、と誓いながら、テーブルの上の幻のグラスを何度もつかみ損ねていた。
最初の数日で熱が下がり、アルコールの離脱症状が抜け、心臓の動きも戻ってきた。脳の萎縮には「余裕がない」が、それはその場になって考えれば良い。
トンチンカンな会話
そして病室では相変わらず、父と娘のトンチンカンな会話が続いていた。
「君は定職についているのかい?」「ついてるわ」
「きみは職探ししてると思ったんだが。定職があるなら、よかったね」「私を名前で呼んでちょうだい」
「他の人が君をどう呼んでいるか、わからない」「アンナよ」「アミ? アマ?」
「慶應って知ってる?」「聞いたことはあるよ」「そこで働いています」
「それは結構。サラリーはいいのかい?」「ちゃんとしてます」
「それは結構」「フランス語とフランス文学を教えてます」
「ワンダフル! ところで君はここで何してるの?」「あなたの面倒を見てます」
話の半ばから、父が私を別人と勘違いしているのは分かっていた。その人物とは、私の異母姉である。母に初婚と偽った父には、以前に短い結婚歴があった。最初の妻は持病のてんかんで、出産と同時に命を失った。
赤ん坊は父の興味を引かず、大叔父と大叔母に預けられっぱなしとなる。その罪滅ぼしか、父は世界のあちこちからまとまった金額を送り続けた。母と結婚後もアメリカへの送金は忘れなかったが、新妻にも生活費が必要という発想が父にはなかった。
駆け出しの画家だった母は、生まれて初めて質屋の暖簾をくぐった。3ヵ月間、茹でた干うどんに醤油をかけて済ませ、ビタミン不足で歯茎がボロボロになった。
父と姉の秘密
私が3歳、姉が13歳のときのこと。彼女は数ヵ月を日本で過ごした。わが家の崖の上にあるアメリカンスクールの普通学級に通った。
姉のいる校舎を、アトリエの屋上から父は飽かず眺めていた。近所を「散歩」する二人の様子がおかしいと、そろそろ噂になりかけていた。父は毎晩12時までを姉の部屋で過ごし、ベッドの母には背中を向けた。
ようやく母は離婚するつもりになった。泥酔の父は教会の神父を家まで連れてきた。どちらが正しいか、見てもらおうというのだ。
「お父さんがキスするのかい?」と、神父は姉に聞いた。「ええ、ここのところ」と姉は首を指した。カトリックの信者は神の前で離婚ができない。だから法律上の離婚をすれば良い、というのが神父のアドバイスだった。
母が行動を起こす前に、まず父は姉をアメリカに送り返した。あの子は恨んでもいいが僕は恨むな、と言い残して旅に出た。1年後、ふらりと舞い戻って、元の家根の下に収まった。
「受刑者だって刑期が終われば家に戻る」とうそぶきながら。
父は姉に送金し続け、姉は50歳にして短大卒業レベルの学位を取得した。
「私は独立する」と言い残して、姉は姿を消してしまった。そのため結構な額の叔母の遺産がいまだに宙に浮いている。
姉の職探しのことが、よほど父には気がかりだったのだと、この日初めて分かった。3歳の時の記憶はほとんど無く、一人っ子として育ち、自分一人が親を看るものと思い込んで来たが、介護がむしろ違った現実を見せてくれる。父が面倒を見るのは姉。その父の面倒を見るのは私。
損な役回り、ではやがて済まなくなってくる。
<第2回へ続く>