黒人女性と結婚した私が「ジョージ・フロイド事件」から考えたこと

日本人として、このニュースに対峙する
鈴木 裕之 プロフィール

ジョージ・フロイド事件に触れて、「被」差別側に共感して心を震わせる人はおおいが、「加」差別側の心に想いを馳せる人はほとんどいないであろう。だが後者にも血の通った現実があり、それゆえ1964年に公民権法が成立したのにもかかわらず、いまだに白人による黒人差別は消えず、オバマ大統領の後にはトランプ大統領が登場するのである。

ニュースの表面的出来事にとどまり、解説者の一方的な見解を鵜呑みにするだけでなく、その裏にあるさまざまな「心」の動きに想像力を働かせながら、自分とは違う人々がいるという現実に眼を向けることが、自分にとって不都合な現実と向きあう姿勢を養うことが、より広い意味で世界を理解することにつながるのではないだろうか。

 

祝祭と日常のあいだ

何を呑気なことを言っているのか。現実に差別に苦しんでいる人々がいるではないか。

そう言って、あなたは憤り、ブログを書き、ツイッターでつぶやき、何人かはデモ行進に参加する。

だが日本において、ジョージ・フロイド事件関連のニュースは必ず終わりを迎える。アメリカのように人種差別が日常生活の一部となっているわけではない日本で、このテーマがアクチュアルな現実として継続的に扱われるとは考えにくい。やがてマスメディアからは姿を消し、人々の話題にのぼることもなくなってゆくであろう。

そのとき、あなたは何をしているだろうか。

人種差別反対の具体的行動が自身の個人的利益に反するようなシチュエーションに遭遇したとき、あなたはふたたびジョージ・フロイドの顔を思いだして、一歩を踏みだすであろうか。あるいは、見て見ぬふりをし、もしかしたら差別する側に与してしまうのではないだろうか。

そのとき、あなたの「心」と「ストーリー」は、どちらの側により近いのだろうか。

祝祭の後には日常がやってくる。「ハレ」の瞬間に共通のスローガンを叫びながら、人種、民族、国籍を超えて一体感を共有するのは簡単である。だが「ケ」の日常は24時間365日つづく。そこにおいて、習慣の違いや考え方のすれ違いに我慢できるのか。

理念は大切だが、日常のなかの実践こそが現実世界を形づくってゆく。あなたの実践は、どんな「形」をしているのであろう。