差し控えと取り外しは確かに「論理的」には同じことだろうが、感情や気持ちの面ではまた違っている。
それは日本の文化がウェットだということばかりではない。
人工呼吸器取り外しに関してドライな論理が主流派になっている英米でも、実際に取り外しを行って患者を死に至らしめた医療従事者の罪悪感やトラウマ(心的外傷)のケアが議論されているくらいだ。
再配分を論じることの気持ち悪さは、どこから来るのだろうか?
一つは、「目の前の患者を全力で救う」という医療倫理の基本原則の一つに、生命に優先順位を付けることが反していることだ。
この点はトリアージにも再配分にもある程度は共通している倫理問題だ。
とはいえ、戦争や大規模災害のような緊急時には、日常の医療とは異なった状況なので、トリアージのような特殊な方法を例外的にとらざるを得ない。
だが、再配分としての人工呼吸器トリアージはそういう枠組みで論じられてはいない。
日常の医療のなかで人工呼吸器を付けて治療を受けている人びとと、新型コロナで急に呼吸状態が悪くなった人びととが、同じパンデミックの緊急事態として一緒くたに扱われている。
いいかえれば、緊急事態を理由に再配分をすることは、パンデミックという例外状態以前の日常の慢性期での人工呼吸器を使ったケアや治療を、緊急時には不用なものとして切り捨て否定することになってしまう。
そう考えれば、パンデミックの際の人工呼吸器再配分というトリアージを肯定することは、重度で慢性期に人びとに装着されている人工呼吸器を、空きがあるから使用しているだけで何時外しても構わないストックと見なしていることになる。
私自身は、生命維持治療の取り外しは絶対的な道徳的悪というわけではなく、ケースバイケースで判断すべきと考えている。
しかしながら、新型コロナのパンデミックで誰もが不安を感じている時期に便乗して、人工呼吸器の取り外しをトリアージとして論じることにはなんとも嫌なものを感じる。