父の急逝後に突然認知症を発症した母の登志子、そしてしっかり者と思っていたのに、実は認知症になりつつあり、母の実家をゴミ屋敷にしていた伯母の恵子。伯母は独身で、編集者の上松容子さんは従妹と協力して2人のケアをすることになった。

当初同居を反対していた義母も最後とは折れて母とも同居になり、上松さん、義母と母、そして夫と娘との生活が始まる。転んだ後に入院していた伯母の退院後の居場所も探しながら、仕事と育児に加え、実家での母の「見守り的介護」が続いた。使用済みトイレットペーパーを流さずにトイレの床に積み上げてしまったり、他人の歯ブラシを使ってしまったり、同居して見守る介護の大変さを思い知ることとなった。そして編集者だった母が大好きな本を読めなくなっている様子に胸が締め付けられる。

今回は、そんな中で恐れていた「母から忘れられてしまう」現実に直面することになった時の話をお伝えする。名前だけ変えたドキュメント連載。

上松容子さん連載「介護とゴミ屋敷」今までの連載はこちら

「低め安定」だと思っていた
母子関係だったが

母・登志子の世話で、私たちの疲労は蓄積していた。夜中に起き出して「たいへんだ、デイケアの準備しなくちゃ」とぶつぶつ言いながら、簡易ベッドをたたもうとすることも頻繁にあった。外に出たらたいへんだから、しょっちゅう目が覚める。慢性的な寝不足になった。

すべて寄り添わなければならない介護ではない。むしろ自分が動けるからこそ、そのプライドを大切にしながら、見守ってそっとその後始末をする、そういう「見守り介護」も骨が折れた Photo by iStock

気の抜けない状態が続いていたけれども、本人はデイケアに通って、それなりに充実した毎日を送っていた。漢字がたくさん読める「優等生」で、歌もたくさん知っていて、サービス精神に溢れているので、ムードメーカーになっているらしかった。施設のスタッフによれば、自分より認知度が低くて、人の輪に入っていけないお年寄りに気づくとサポートしたり、元来の面倒見の良さを発揮して過ごしていた。

とりあえず、日中は自分らしく過ごせている。私たちでは心の距離が近すぎて、付き合いの加減がうまくいかなかったのだ。適度に人手を借りると、バランスがとれていい。

家では、何かあれば容子容子と名前を呼ぶ。手伝わねばならないことが多く面倒だけれど、親子の最後の関係としては、これでいいのかなと、漠然と思う毎日だった。
しかしこのとき、母の側には重大な変化が起きていたのだった。