濃厚接触がなければ芸術は成り立たない〜ポストコロナ期の芸術の使命

ウイルスと共生する日常のなかで
黒瀬 陽平, 宇川 直宏 プロフィール

黒瀬:(笑)。少なくともぼくたちは、リスクを取ってでも芸術の話をするんだと自分で判断して、ここに来ているわけですよね。その判断が許される世の中にならなければ、芸術文化は死んでしまう。自粛自粛と言うけれど、芸術文化だって生き物だから、自粛している間にどんどん死んでいきますよ。

それは補償や給付金の話とも違います。補償や給付金は大切ですが、それはあくまでも、この急場をしのぐための話です。急場をしのぐことと、その後の日常について考えることは同じじゃないですよね。芸術文化のためにリスクを取ることが許されない、濃厚接触や3密を簡単に禁じてしまうような社会にしないために、芸術には何ができるのか。

そうやって自問自答していて思ったんですが、もしかしたら芸術は本質的に、人間を濃厚接触や3密へ誘惑するものなんじゃないでしょうか。

〔PHOTO〕iStock
 

コロナ時代に求められる「3つの場」

宇川:すばらしい。逆説的なようだけど、DOMMUNEは最初からインターネットを過信していないんですよ。DOMMUNEは3つの「現場」を同時に捉えている。

第一の現場は、スタジオ、フロアという生々しくも3密であるこの空間ですね。人が刺せる距離で音楽に身を委ね、身体同士の魂の交流を行っているこの現場。ここにはいま感染拡大を防ぐために5人くらいしかいないけれど、本来は3密の醍醐味を堪能できるフロアが存在している。

もう1つはストリーミングを覗いている世界中のビューワーたちそれぞれの視聴覚環境。これが第二のレイヤーです。第三の現場は、そのビューワーの人々が意識交流をしているタイムラインです。僕はこの3つのレイヤーからなる現実時間を共有する共時性を伴った集合意識を可視化しながら10年間ずっと地下に籠ってライヴストリーミングし続けています。

だから現今のオンラインフェスブームにはすごく違和感があります。あれは第二のレイヤーである「見る、見られる」関係を相関させ合って数珠つなぎにしただけでしょう。大変なジレンマです。なぜならこの方法では、コミュニケーションにおいて、身体性と場所性が一度も有効に介在しない。コロナ禍には最適の無ウイルス、無菌空間で、だから現在着目されているわけです。

なぜこのことを強く批評しなければいけないかというと、いままでストリーミングというのは、ライヴのステージの崇高さに比べられ、所詮擬似行為だろうと虐げられてきました。

ところがコロナ禍においてネコも杓子も配信するしか実践できない時代が一瞬で到来し、疑似行為の豊かさ、つまりオナニーの可能性が、ようやく理解され始めてきた。DOMMUNE開局10年目にしてセックスとオナニーは全く違う素晴らしさを秘めていると世界の側がやっと気づきはじめた(笑)。にもかかわらず、その変化を十分に意識できていないと思うんです。