教員も驚いた…今の大学生が「マルクスに共感」するようになっている

彼らはこの思想家に何を見ているのか
田上 孝一 プロフィール

これまでマルクスを学ぶことがなかった学生は当然、現行の労働のあり方を当たり前のものと受け止めている。大学を卒業したら就職するのだし、就職というのは働いて賃金を受け取ることである。運よく高収入の職場に就職できるかもしれないが、運悪く低収入の職に就いてしまう可能性もある。しかしそれでもそれは仕方ないことだし、たとえ収入がよくても仕事が辛い場合は、それもそういうものだと受け止めてゆくわけである。

つまりマルクスを学ばない学生からすれば、現行の社会の現実はデフォルトな条件であり、それ自体の善し悪しを価値判断して、ましてやその変革を求めるような対象ではないということである。ところがマルクスによれば現行の労働のあり方は、資本主義における「疎外された労働」だというのである。所与の運命だと思っていたものが、歴史的に特殊な条件であり、しかも根本的に歪んだ否定的な現実だという。これを聞いて驚かない学生は少ない。

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「労働過程」こそ重要である

実際疎外された労働という話を聞いた際の学生の反応は、やはりかつてはそれでもソ連の現実などを引き合いに出して反発するということもあったが、今はただ素直に受け止め、そういう考え方があるのだと新鮮な気持ちになるというのが多い。

また、実際にアルバイトを体験している学生などは、自分がやっていたこと、自分が受けた嫌な気持ちを表現する言葉としての「疎外」を知ったことに喜びを見出し、実感と共に大きく共感するという場合が少なくない。

とはいえ、疎外というのはアルバイトのような個々の労働現場だけの話ではなく、マルクスの場合はこの資本主義社会の基本性格を表す概念でもある。つまりマルクスによれば、資本主義は疎外によって人間社会が本来あるべきあり方から転倒していると見なされるのである。

このことを私は概ね次のように学生に説明する。

我々の生活はどこかで何かしらが作られ、作られたものが流通して、それを購入して消費することによって成り立つ。この生産から始まって消費に終わるサイクルが繰り返される再生産構造が、我々の社会の基本である。だとしたら、この過程の出発点である生産活動は、社会そのものを支えるような重要な要素になるのではないか。

生産とは物を作ることであり、物を作る行為は労働である。労働が行なわれる過程が労働過程である。ならば我々の社会の中心的位置にあるのは労働過程ということになるはずである。労働過程は労働者が主体となって行なわれる。というよりも、労働過程は労働者が労働力を用いることによって実現される過程なのだから、労働過程の主体は定義上労働者である。

我々の社会の中心には労働過程があり、労働過程の主体は労働者である。では我々の社会の主役は当然労働者ということになるのではないか。