ところがいつの間にか、毎年のように見られたマルクスや社会主義への否定的な言辞が減り、憎悪や罵りの類はほとんど見られなくなってきたのである。
これは何よりも、時間の風化作用が大きいだろう。2000年前後の大学生にとっては、ベルリンの壁やソ連はまだかろうじて子どもの頃に体験した同時代的な現実だった。これが2010年も過ぎると、もう学生にとっては自分が生まれる前の、教科書で習う「歴史的事件」に過ぎず、我々が子供心に心配した、いつか核ミサイルが降ってくるんじゃないかという冷戦時代の緊張感は、全くのお伽噺になってしまったのである。
こうしたいわば「幸せな無知」によって、かえって学生の心に余計なバイアスが持ち込まれずに、マルクスのテキストが他の哲学と並ぶ古典の一つとして現れるようになってきたということだろう。
勿論今の学生の中にも、マルクスを偏った「左翼イデオロギー」の首魁のように、思いっきり政治バイアスがかかった目で見るものはいると思うが、私の印象ではそれは例外で、大多数は概ねニュートラルに受け止めるようになっている。
マルクスの批判が当てはまる社会
こうなってきた時に驚くようになったのは他ならぬ私自身である。何しろ周りの評価が最低の時代に研究を始めたのだから、自分の研究が腐されるのが通常運転で、常に弁明の機会を伺って生きてきたからである。この変化は勿論嬉しいが、反面喜んでばかりもいられないところもある。
マルクスが偏見のない学生にすんなり受け入れられ、素直な同意の声が寄せられるということは、それだけマルクスが批判していた現実が残存しているということだからである。
それどころか、今はある意味ではマルクスの時代よりも一層事態が悪化しているとも言えるかも知れない。例えばワーキング・プアである。