54歳でこの世を去った天才柔道家、斉藤仁とは何者だったのか

本当に強かった…
週刊現代 プロフィール

次なる試練

山下引退後は「斉藤一強」の時代がくると、多くの人が思った。しかし、次なる試練が待っていた。山下との最後の試合の5ヵ月後、1985(昭和60)年秋の世界選手権で斉藤はひじを負傷1987(昭和62)年春には練習中にひざをひねり、大ケガを負ってしまう。

試合に出られないことに焦りを募らせ、身体を思うように動かせない自分に苛立った。リハビリも辛く、何度も心が折れそうになった。それでもふんばれたのは、どうしても「日本一の山」に登りたいという思いがあったからだ。

「そして、仁ちゃんは1988(昭和63)年春の全日本選手権で優勝するのです。鬼のような、ものすごい形相で相手に向かっていった彼の姿を、よく覚えています。7度目の挑戦にして、初の全日本選手権制覇でもありました」(山下)

斉藤は27歳。ようやく日本一になり、試合後、感極まって涙を流した。さらに、同年秋のソウル五輪95キロ超級でも優勝。表彰台のてっぺんで、また泣いたのだった。

1988(昭和63)年4月の全日本選手権で、ついに日本一に。大ケガを克服しての初優勝とあって、喜びも大きかった。表彰式のあと、故郷・青森から応援に駆けつけた父親(右)の手を握ると、また涙があふれた 写真/『柔の道 斉藤仁さんのこと』
 

青森の純朴な少年

1961(昭和36)年、青森市生まれ。子供の頃から身体を動かすのが大好きだった。夏は野球や水泳、冬はスキーに雪合戦。家のなかでは、3学年下の弟・悟とプロレスごっこに興じた。柔道に目覚めたのは小学校6年生のとき。悟が振り返る。

「当時青森で放送されていたドラマ『柔道一直線』を観たのがきっかけです。兄を夢中にさせたのが主人公・一条直也の必殺技『地獄車』。組みついた相手と一緒にぐるぐる回転し、相手の頭を畳に何度も叩きつける危険な技です。兄は家でそれを私にかけるのです。私は毬のように転がり、壁のあちこちに身体をぶつけました。そのため壁は穴だらけになりました」

中学に進学するや、斉藤は勇んで柔道部に入部。練習に励み、3年時には県の中学校体育大会の重量級で優勝を果たす。それが評判になり、東京からスカウトが来た。国士舘高校柔道部の川野一成監督だ。斉藤に面会し、ひと目惚れした経験を川野が話す。

「彼の学生ズボンには、股のところに当て布が縫いつけてありました。それを見たとき、『この子は柔道界のトップに立つかもしれん』と思ったんです。彼は腰まわりや腿が太すぎて、既製のズボンがはけない。だから股の縫い目をほどいて当て布をつけ、股の部分を広げていた。どっしりとした足腰もさることながら、そういうズボンをはく純朴さに、私は惹かれました」