6月29日 江戸時代の漢方医、浅田宗伯誕生(1815年)

科学 今日はこんな日

地球のみなさん、こんにちは。毎度おなじみ、ブルーバックスのシンボルキャラクターです。今日も "サイエンス365days" のコーナーをお届けします。

"サイエンス365days" は、あの科学者が生まれた、あの現象が発見された、など科学に関する歴史的な出来事を紹介するコーナーです。

1815年の今日、漢方医として知られ、のど飴の「浅田飴」の名前の由来にもなった浅田宗伯(1815-1894)が誕生しました。

浅田宗伯 Photo by Kodnasha Photo Archives

信濃国筑摩郡栗林村(現・長野県松本市)にある医者の家系の3代目として生まれ、本名を直民(のち、惟常)といった宗伯ですが、幼少期には賢くはありませんでした。彼に中国の有名な書物である四書五経を教えていた先生も、浅田家の子にもかかわらずどうしてこれほど物覚えが悪いのかと不思議がったそうです。

しかし、宗伯は15歳の時に一念発起し、計5年ほど江戸と京都を行き来してさまざまな学問を学びます。このとき宗伯に史学を教えたのは、著書『日本外史』で知られる儒学者の頼山陽(らい・さんよう、1780-1832)でした。

22歳の時に江戸で開業した宗伯は、最初の数年間は父の死、火事に巻き込まれた自宅の損傷など苦労の日々が続きました。しかし、やがてかつて彼に医学を教えた中村中倧(ちゅうそう、1778-1851)の推薦で地元に近い高遠藩の藩医として迎えられます。

その後も、現在よく知られている通称「宗伯」の由来にもなった幕府医官の本康宗円(生誕年不明-1852)などの助けを得て、1866年には幕府の御典医になりました。

 

御典医になった宗伯は、フランス公使レオン・ロッシュ(Michel Jules Marie Léon Roches、1809-1901)の腰痛を治したことによって国内外で評価を高めました。このときの宗伯は、使用する漢方薬の情報を患者に開示したことでも知られています。

しかし、1875年に西洋医学に基づく医師のみを認める法律が出たため、漢方医は事実上の廃絶に追い込まれます。宗伯は、1879年に生後間もない明宮嘉仁親王(-1926、のちの大正天皇)を漢方で危篤から救うなどして免許改正の請願運動を率いました。

宗伯の死後の1889年、その弟子を父にもった堀口伊太郎(1868-1931)が父の調合した薬用水飴に宗伯の苗字を冠して売り出したことが、現在の「浅田飴」の由来になりました。当時から変わらない「良薬にして口に甘し」の精神のもと、生薬エキスによってせき・のど・こえに効く浅田飴は現在も販売されています。

浅田飴 Photo by flickr