手記を遺した大野竹好中尉

【戦争秘話】22歳のイケメン零戦隊長が遺した、壮絶なる空戦の記録

日米航空隊が繰り広げた2ヵ月間の激闘
「コロナ禍」ですっかり影が薄くなった感はあるが、太平洋戦争が終わって今年で75年。「あの戦争」が、日本人にとって忘れてはならない記憶であることに変わりはない。今回、取り上げるのは、77年前の昭和18(1943)年6月30日、南太平洋・ソロモン諸島の戦いで戦死した、零戦隊の指揮官が遺した手記。22歳の若さで部隊を率い、敵機の大群と戦った彼は大空で何を見たのか――。
 

成績優秀、運動神経抜群の「天草四郎的な美少年」

〈以下は昭和十八年五月一日に始まる私の戦闘記録である。いささかの嘘もない戦闘の実相をそのまま書いた。機会があれば私はこれを一般の人々に発表し、海軍戦闘機隊がいかなるものかを知ってもらいたいと思っている。(中略)実際の戦闘は真面目なものであって、これを表現するのに誇張を交える気には到底なれない。〉(文中、旧漢字、旧仮名遣いは新漢字、現代仮名遣いに変換)

――筆者の手元に、海軍兵学校(海兵)68期のクラス会から託された、ある同期生が戦死直前、最前線で記した手記のコピーがある。原本はクラス会幹事が保管していたが、幹事が亡くなり、クラス会も消滅したいま、その行方はわからない。

「第二五一戦闘機隊」と題するこの手記を書いたのは、零戦隊の若き指揮官(分隊長)だった大野竹好(たけよし)中尉である。

大野竹好中尉が陣中で記した手記のタイトルと序文

大正10(1921)年1月18日、石川県生まれ。石川県立金沢第一中学校(現・石川県立金沢泉丘高等学校)4年のとき、一高(第一高等学校、現・東京大学教養学部など)、陸士(陸軍士官学校)とともに「天下の三難関」と呼ばれた海軍兵学校に合格、昭和12(1937)年4月、68期生として入校した。

合格者の多くは中学5年を修了、または浪人してきた者で、4年修了で受験し、早生まれの大野は、クラスのなかでも最年少に近かったが、入校時の成績は300名中26番で、「掛け値なしに頭の良かった男」との同期生の評がある。

大野と海兵同期の艦上爆撃機(急降下爆撃機)搭乗員で、ソロモン航空戦で米軍捕虜となり、戦後、直木賞作家となった豊田穣氏によると、大野はどこかエキゾチックな感じのする「天草四郎的な美少年」だったという。

肝が太くて押しも強く、口八丁手八丁、運動神経抜群、海兵のスポーツ競技ではつねに成績優秀者のメダルを獲得していた。クラスメートたちは、「竹好」を音読みして「チクコウ」と呼んでいた。

昭和15(1940)年8月、途中脱落者をのぞく卒業生288名中36番の成績で海兵を卒業。練習巡洋艦「香取」、重巡洋艦「鈴谷」乗組を経て飛行学生となり、霞ケ浦海軍航空隊で練習機、大分海軍航空隊で戦闘機の操縦訓練を受けた。

大野竹好中尉。昭和17年6月、大分海軍航空隊で戦闘機搭乗員としての訓練を卒業したとき

昭和17(1942)年6月、訓練を卒えた大野は、中尉に進級し、南太平洋の最前線ラバウルを拠点に戦っていた台南海軍航空隊に配属される。

昭和17年、大野中尉が最初に赴任した台南海軍航空隊の集合写真。昭和17年秋、ラバウル東飛行場にて。前列左から5人めが大野中尉。その右、中島正少佐、齋藤正久大佐、小園安名中佐、二人おいて西澤廣義上飛曹
大野竹好中尉。上の集合写真からの拡大

そして、11月上旬、部隊の再編成のため内地に引き揚げるまで、東部ニューギニアやガダルカナル島をめぐる攻防戦に出撃を重ねた。その間、5機の敵戦闘機を撃墜(うち1機は不確実)した記録が、防衛省防衛研究所所収「台南空戦闘行動調書」に残っている。

零戦隊の一大拠点だったラバウル東飛行場跡。現在は向こうに見える活火山「花吹山」(タブルブル山)の火山灰に覆われている(撮影/神立尚紀)

大野中尉が、ふたたびラバウルに進出したのは、昭和18(1943)年5月1日のことである。台南海軍航空隊は、第二五一海軍航空隊(二五一空)と名を変え、大野はこの部隊の分隊長になっていた。

大野の手記「第二五一戦闘機隊」は、この日から始まる。すでに2月、日本軍はガダルカナル島から撤退していたが、ここで米軍の反攻を食い止めようと、日本の航空部隊は、ガダルカナル、東部ニューギニアの連合軍拠点への空襲を繰り返していた。

昭和18年5月1日、大野中尉は二度めのラバウル進出を機に、手記を書き始めた

ラバウル基地に配備された二五一空は、零戦58機、陸上偵察機5機の戦力を持ち、飛行隊長・向井一郎大尉、分隊長・木村章大尉、鴛淵孝中尉、大野中尉、大宅秀平中尉以下、准士官以上11名、下士官兵63名、計74名の零戦搭乗員を擁していた。