疑惑の「河井夫妻問題」、新聞・テレビが見逃している「重大な論点」

法相任命は「指揮権」狙いだったのか
與那覇 潤 プロフィール

たとえば真に「三権分立」のビジョンを徹底し、司法機能としての検察の独立性を高めるなら、米国の地方検事で見られるように「選挙で検察官を選ぶ」方式になります。しかしこれにはこれで、特に再選を狙う現職検事がポピュリズムに走りかねない欠点がある。

一方で日本型の「行政官としての検察官」には、すでに先例のあるとおり、時の内閣が恣意的に指揮してしまうリスクがある。しかし、かといって一切の民主的な統制に服さない、戦前の軍隊のような組織になってはまた別の問題を生ずるでしょう。

 

ワンフレーズで語れる「理想の体制」がどこかにあるわけではなく、いかなる社会や制度を選ぼうとも、私たちは絶えず内なる矛盾とつきあっていかねばならない。だからこそ「これが正義だ!」として民意が湧きたつトピックがあったとき、「本当にそうなのか」「正しかったとしても、一番大事な問題の所在は他にないか」と反省し、副作用が生じそうなら指摘してゆく。

かような複眼的な思考を促す役割を、歴史を参照する営為がかつては果たしてきました。それは必ずしも歴史学者の手を介するものではなく、本稿で挙げた「昭和史上の指揮権問題」などは、ほんらい同時代の体験を知る人には“常識”に属する事柄です。

そうした常識の衰退のために社会に混乱が生じても、なにもしない目下の歴史学者たちを先日批判したところ、「そんなのは“本物の歴史学”の仕事じゃない」なる、たいへん高尚な見地からの反論を多数頂戴しました。彼らに対しては、7月18日に刊行となる『表現者クライテリオン』誌のコロナ特別号で再反論していますが、国民が過去の先例をふり返らず、日替わりのように単純化された勧善懲悪劇が浪費されてゆく裏で失われているものは、ほんとうにないのかどうか。

いま一度考える機会を、本稿が提供できるなら幸いです。