子どもたちが作った花道を走って入場する釜石シーウェイブスの佐伯悠。釜石で行う試合でおなじみの光景だ(2013年10月、釜石市球技場の日野自動車戦)

震災を風化させない―—釜石ラグビーを支え続けた男が胸に抱える矜持

W杯は終わっても、復興は終わっていない
東日本大震災の直後に、甚大な被害を被った釜石を本拠地とするラグビーチーム、シーウェイブスのキャプテンに就任。津波によって多くの人が犠牲になった町で、複雑な思いを抱えながら、必死でリーグ戦を戦い、ワールドカップ招致にも尽力した男が、現役を引退した今も抱き続ける復興への熱い思いを語った。
 

何がどう大変だったかも覚えていないあの1年

2019年9月25日。快晴に恵まれた釜石市の鵜住居(うのすまい)復興スタジアム。日本中、世界中から、この日を待ちわびたラグビーファン、各国のサポーター、市内全域の小中学生たち……人波はまったく途切れることなくスタジアムへと向かっていた。

どの顔も輝いている。この日が特別な日だということを、そこに駆けつけた誰もが理解していた。そのスタジアムがそこにある意味も、これから始まる試合の意味も、この日ここへやってきた誰もが熟知し、想像し、理解していた。

仮に予備知識ゼロの人がいたとしても、この空気感から強いポジティブなメッセージを受け取ったに違いない。

スタジアムへ向かって歩いてくる人波の中に、佐伯悠がいた。「富来旗」と呼ばれる大漁旗をデザインした派手な釜石ラグビー応援Tシャツを着て、胸を張って歩いていた。

2019年9月25日、釜石で行われたワールドカップ初戦、佐伯は満面の笑みで駆けつけた

佐伯は、震災に襲われた2011年から、釜石を本拠地とするラグビーチーム「釜石シーウェイブス」のキャプテンだった。この年に現役を退いたばかりで、シーウェイブスのFWコーチを務めていた。

「本当は、現役選手として釜石のワールドカップを迎えたかったんですけどね」

佐伯はサバサバした口調で振り返った。

2019年度、佐伯はコーチとしてチームを支える裏方に回った。6月29日、トップリーグカップのクボタ戦で
2019年7月13日、トップリーグカップでは、前年までトップチャレンジで戦い、一足先にトップリーグに昇格した三菱重工相模原を撃破。会心の笑みで選手を迎える

「でも、引退してよかったこともありました。釜石で行われた試合はもちろん、それ以外の日もほとんど毎日、ファンゾーンでワールドカップの試合を観てましたから。大会を満喫しました。現役選手だったら、そこまで連日飲むわけにはいかない(笑)」

ワールドカップ期間中、開催地となった全国12会場のある自治体ではスタジアムの他にファンゾーンが設けられた。他の開催地では、自分たちの会場の試合が終わると閉鎖してしまうところが多かったが、釜石では決勝までファンゾーンがオープンし続けた。

佐伯は試合がある日はほとんど、毎日のようにファンゾーンへ行き、知り合い同士だけでなく、ラグビーには縁遠そうなおじいちゃんおばあちゃんたちと一緒に映像に釘付けになってワールドカップを堪能した。大会公式スポンサーのハイネケンビールを大量に流し込んだ。

「ワールドカップが釜石に来たら絶対に楽しい。最高に楽しい。それはずっと確信してましたけど……本当に、これ以上ないくらい楽しませてもらいました」

ラグビーワールドカップでは、きっとたくさんの人が同じようなことを口にしただろう。だが、佐伯の発した言葉には、他の人のものとは違う重みがあった。

 

横浜市に生まれ、関東学院大学に進み、2007年に釜石シーウェイブスに加わった佐伯は、東日本大震災が襲った直後、2011年のシーズンにキャプテンに就任した。

震災から2ヵ月が経とうとする5月3日、釜石シーウェイブスは練習を再開した。本拠地の松倉グラウンドはまだ救急用のヘリコプターが待機するヘリポートとして供出されていて、練習に使えたのはグラウンドを囲む陸上トラック部分だけ。それでもシーウェイブスの選手は誰もが目を輝かせてボールを投げ、蹴り、互いの身体をぶつけた。

ラグビーはやっぱり楽しいな……そう思って練習を終えた佐伯を取材陣が取り囲み、「キャプテンの佐伯さん、お願いします」と言われた。

「そのとき初めて、自分がキャプテンになっていたことを知ったんです(笑)」

2011年5月15日、震災後の初試合は佐伯にとって主将初試合、相手は母校の関東学院大だった

その数日前、ヘッドコーチのポール・ホッダーから「今年はリーダーをやってほしい」と言われた。「リーダーでも何でも、このチームでラグビーができるんだったら僕は何でもやります」と佐伯は答えた。

ホッダーは、佐伯と、SH長田剛の2人をリーダーにすると言った。佐伯は、2歳年上で、トップリーグのワールドでもプレーしていた長田がメインのキャプテンだろうと受け止めていた。ところが練習再開の日で、報道陣に囲まれたのは自分だった。

「キャプテンの覚悟も何もなかったし、しどろもどろでしたね。『キャプテンをやることになった佐伯です』くらいのことしか言えなかったと思います(笑)」

2011年6月5日、震災後の釜石で初めて行われた試合(ヤマハ発動機戦)。試合前に両チームの選手は黙禱を捧げた。隣は前主将のアラティニ
震災後の初試合には多くのメディアが駆けつけた

何しろ、時間は怒濤のように流れていた。職場では、残った製品の搬出、出荷、土砂や水をかぶった機械の修繕の手配、業務再開の準備に追われた。チームは短い準備期間で試合に備えなければならなかった。試合のときだけではなく、練習にも多くのメディアが訪れ、そのたびに佐伯はマイクとテレビカメラを向けられた。

「正直、あのシーズンのことはよく覚えていないんです。いろんなことがありすぎて。断片的には覚えていても、時系列になっていない。何を話したかも細かいことは覚えていない。出来事の前後がわからない。半年が1日か2日くらいだったような感じで、あっという間に秋のシーズンが始まって、終わってしまった感じです。

ただ、どんな取材でも受けよう、ちゃんと話そう。それだけは自分の中で決めていました。釜石のことを全国に向かって発信できる、こういう中で自分たちはラグビーをやらせてもらえている。それがどれだけ普通ではないことか、その感謝を伝えるのは僕らの責任だと思ったし、僕がしゃべったことを聞いた人が『津波に気をつけないと』という意識を頭の中に刻んでくれたらいいなと思ったし、ついでに釜石ラグビーを好きになってもらって、試合を見に来てくれる人が増えたら嬉しいと思いました」

釜石で行われる試合では毎試合後、地元メディアはじめたくさんのカメラ、マイクを向けられた
 

カレンダーには遠征の印が毎週のようにつけられた。立ち止まる余裕も、先のことを考える余裕も、過ぎたことを振り返る余裕もなかった。

「大変だったね、といろんな方に言ってもらいましたが、正直、何がどう大変だったかも覚えてない(笑)」

震災1年目のシーズンのファン感謝祭で、佐伯はスコット・ファーディ、吉田尚史とともにファンからの表彰を受けた