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コロナで人生の終末を意識するようになった人に贈る「完全燃焼の心得」

何事も終わりがあるから集中できる

アフター・パンデミックの心

中国・武漢で発生した新型肺炎は世界的なパンデミックを引き起こした。スペイン風邪(これも最初に発症したのは中国大陸においてだとする説もある)は第1次世界大戦末期の混乱期から広まったが、今回の肺炎は、第2次世界大戦以後75年間も世界的な戦争の無い安定した時代に生じた。

したがって、平和な時代に起こった惨事は、人々の精神面に与える衝撃が実際の被害よりもはるかに大きいと考えられる。

アフター・パンデミックの世界は色々論じられているが、経済・社会の激変は、結局、人々の「心の変化の表現」=「行動様式の変化」によって引き起こされると考えている。

特に重要なのは「人生は有限である」という当たり前のことが強く意識されたことではないだろうか? 志村けん氏の死は、日本国民に大きなショックを与えたが、感染症に罹れば人間はあっという間にあの世に行ってしまうということを肌身で感じたと思う。

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私はよく冗談交じりに「人類の歴史上死ななかった人間はいない」と言うが、秦の始皇帝を始め世界中の富と権力を手にした人々が「不死への願望を実現しようとした」が、少なくとも今のところ果たされていない。

現代でも、死体を超低温で冷凍保存し、医学が発達していると想像される未来での再生を願うという、SFのような組織が米国などで存在する。

しかし、2月22日の記事「どんな権力者でも『いつかは消える』から人類社会は発展した」で述べたように、人間の死が社会全体にとっては有用かつ必要なものであることは明らかだ。

それに対して、個人にとっての死はなかなか受け入れるのが難しい。もちろん、少なくとも現在、私も長生きしたいと思っている。しかし、小説や映画などで「不死身の人間」が描かれるときに、彼らは決して幸せではない。

周りの不死ではない愛する人々が次々とあの世に旅立っていくし、世の中の混乱、不正、邪悪さも根本的には変わらない。そのように考えると、人生に期限があるということは好ましいことかもしれない。

 

徳川家康は「 人の一生は重荷を背負うて遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし」と述べているが、人生はただ面白可笑しいだけではない。重荷も背負っているのだ。その意味で「死」は、重荷から解放してくれる朗報とも言える。