「人種差別にピンと来ない」日本人には大きな特権があるという現実

「何気ない言動」が問われている
ケイン 樹里安 プロフィール

「差別」と断言せず、しかし「炎上覚悟」であること

オコエ瑠偉選手が投稿した嘲笑と暴力と他者化の経験の数々を、わたしたちは何と呼ぶべきだろうか。どのように解釈すればよいだろうか。

おそらく、「日本には人種差別は存在しない」ことにしておきたい動機を抱えた者でもなければ、ふつうは、人種差別と呼ばれるべきものだ。それこそ、彼の投稿に寄せられる――彼自身が選択しなかった差別という言葉を躊躇もなくチョイスした上で――「それは差別ですよ」などとなぜか彼に諭すような投稿の数々がそれを傍証している。

だが、オコエ瑠偉選手は「差別かどうかはどうでもいい」「これが差別なのか俺でもわからないから俺は使わない」と述べている。

一方で、彼は「日本人一部にとって差別って言葉自体刺激的だ」とも述べている。そう、「刺激的」なのだ。

人々が何気なく、居心地よく生活をおくる自由を奪うような嘲笑・暴力・他者化、さらには訓練を積んだアスリートの身体をまっとうに評価するのではなく「外人だから、黒人だから」という理由で否定するレイシズム(人種主義)に満ちた経験の数々であっても、それを差別だと表現した瞬間、いわれなきバッシングやプレッシャー(抑圧)が日本社会に充満していることを、彼の言葉は指し示している。

いや、もうすでに、彼の投稿に寄せられた「日本人として申し訳ない」といった、どこか他人事で、そして同時に「日本人」の枠組みから彼を――意図的にか、非意図的にか――はじき出す言葉の数々が、そのプレッシャーと表裏の関係にある。だから、「炎上覚悟」なのだ。

「おんなじ境遇の人やその両親に少しでも励みになればと思い」「自分の経験を語りだす」ことにすら「覚悟」を強いる社会。自らの「心をシャットダウンして、他人に何の感情もわかなくなるだけ」の経験が自分の「人生にはつきもの」であることを、公言することにすら、「覚悟」を強いる社会。

「おんなじ境遇の人やその両親」を宛先として、そして(この記事も含めて)「勝手に差別」として取り上げるメディアに楔を打ち込むように、自らの言葉を慎重に選びながら、「共感につなが」るべく発された彼の投稿が明るみにだしたのは、日本社会の閉塞感と、レイシズムの在り処だ。

〔PHOTO〕gettyimages
 

Black Lives Matterの高まりやオコエ瑠偉選手の投稿と前後するように、日本語圏のSNSでも、自らが直面してきた人種差別について語りだす人々の投稿が次々となされている。

興味深いことに、それらの投稿には、しばしば、「それは差別ではない」「そのような言い方では誰も納得しない」「日本から出ていけ」「母国へ帰れ」といった、日常の人種主義(everyday racism)の典型例としかいいようのないリプライが寄せられている。

日常の人種主義とは何か。それは、「人種」的にはマジョリティに属する集団の何気ない言動がマイノリティの排除や序列化、構造的な不平等と結びつく実践とプロセスのことである(*2)

たとえば、マスメディア上で「ハーフ」タレントが涙ながらに差別経験を語ったとしても、それをほかの出演者が「こだわりすぎ・過剰反応・よくあること・自然なこと」として矮小化し、社会への異議申し立てを抑圧するさまは、しばしばよくみられる(*3)

こうした「抑圧」、さらには、社会の構成員として受け容れない「周縁化」、マイノリティをマジョリティより「劣っている」ものとみなし毀誉褒貶にさらす「問題化」といった形態をとりながら、日常の人種主義は日本社会においてもしばしばみられる。

いま現在、SNS上で自らが直面してきた人種差別や人種経験について語りだす人々の投稿に寄せられる心ない言葉は、その反復である。

オコエ瑠偉選手が自身の投稿に「炎上覚悟」「刺激的」という言い回しを付け加えたのは、あまりにも見慣れてきた日常の人種主義そのものである多数の声が、プレッシャーとして自他に寄せられてしまうことへの予期があったのではないだろうか。

あるいは、自らを「差別の犠牲者」として扱うことで、またもや「アスリートとしてのまっとうな評価をしない人々」が眼前に出現することを牽制しているのだろう。

あるいは、かつてのクラスメイトや教師、「先輩」や「OB」をはじめとする人々の日常の人種主義が、あまりにも「何気ない」ものであるからこそ、「差別かどうかわからない」という言い回しによって、嘲笑・暴力・他者化のその身に浴びてきた1人でありながら“配慮”をみせているのかもしれない。

オコエ瑠偉選手の真意は本人にしかわからない。だが、その慎重な言葉選びそのものに、日本社会の日常の人種主義が垣間見えるように思われる。

日本社会にレイシズムは存在しないのではない。そう呼ばれていないだけなのだ。いや、そう呼ばないようにしている人々と、そう呼ばせないプレッシャーがそこにあるのだ。

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