左から八村塁さん、大坂なおみさん、オコエ瑠偉さん〔PHOTO〕gettyimages

「人種差別にピンと来ない」日本人には大きな特権があるという現実

「何気ない言動」が問われている

社会問題にコミットするアスリートたち

2020年6月20日。NBAで活躍する八村塁選手がBlack Lives Matterのパレードに参加したことを伝えるニュースが相次いだ。テニスの大坂なおみ選手も、Twitter上でBlack Lives Matterと連動し、国内外の人種差別について鋭い問題提起を投げかけている。

このように、アスリートとして、己の身体技法を駆使するだけでなく、社会問題について鋭く問題提起を行う者のことを、山本敦久は「ソーシャルなアスリート」と呼ぶ。国家斉唱の際に片膝をつくことで、Black Lives Matterとの共鳴を示したアメリカンフットボール選手・キャパニック。チームメイトの人種やジェンダー、セクシュアリティの多様性を「誇り」とし、多様性への不寛容をあらわにするトランプ大統領がいる「ホワイトハウスにはいかない」と明言した女子サッカー選手・ラピノー。観衆の快楽・期待・失望・絶望などのさまざまな感情と情動を触発する行為主体であるアスリートによる問題提起は、だからこそ、社会にインパクトを与え、現在の抑圧的な社会とは別様の社会――ありえるかもしれない未来――を人々の眼前に突きつける(*1)

〔PHOTO〕gettyimages
 

そのインパクトゆえにアスリートたちには「スポーツに集中しろ」といった声も寄せられるのだが、そもそもスポーツこそが社会問題が「出会う」場である。

たとえば、2020年の開催が幻となった東京オリンピックでは、人種差別への抗議をはじめとする「政治的なパフォーマンス」は禁止を筆頭に、贈収賄、かさむ開催費、熱中症の危険があるなかでの学生ボランティアの「動員」、国立競技場の設営にかかわった新卒の若者の自死など、さまざまな社会問題が飛び交うなかで、「スポーツに集中」できるほうがむしろ困難である。

ソーシャルなアスリートの台頭は彼らの主体性と共に、彼らがソーシャルなアスリートとして振舞わざるえないほどの社会問題の交錯と蓄積がスポーツの内外ではびこっていることにも注目するべきだ。

しばしば、「ソーシャルなアスリート」は社会変革の主体としてみなされるわけであるが、そのパフォーマンスがスポーツの内外を取り巻く社会問題とその社会的文脈をあらわにする「ソーシャル」なものであるからこそ、その実践は複雑かつ多義的なものとなりうる。

たとえば、プロ野球・楽天イーグルスのオコエ瑠偉選手のTwitterでの投稿は日本社会の諸問題を可視化するまさしく多義的な実戦である。