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死ぬことばかりを考え続けた…、芥川龍之介の「ネガティブ名言」10

言葉に色濃く現れる「晩年の変節」
世の中に名言集は数多くあれど、新刊『文豪たちの憂鬱語録』(豊岡昭彦、高見澤秀 編著)はそれらとは一線を画す一冊だ。夏目漱石や芥川龍之介らが著作で綴った「憂鬱」「絶望」「悲哀」などに満ちた言葉をまとめた本書は、歴史に名を残す文豪たちにも、傷つき苦しんだ一面があることを想像させる。
中でも「将来に対する唯ぼんやりした不安」で知られる遺書を残し、35歳で服毒自殺を遂げた芥川龍之介は、晩年、数多くの「ネガティブ名言」を残している。その一部をご紹介しよう。

なぜ芥川は自殺に至ったのか

芥川龍之介は本名だが、出生名は新原龍之介と言う。生後7か月のころ母が精神に異常をきたし、後に亡くなったため、母の実家である芥川家に養子に入って以来、芥川姓となった。

学業成績は非常に優秀で、第一高等学校を経て1913年、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。同級生の菊池寛らと同人誌「新思潮」を刊行し、文学青年としても活動した。在学中に発表した「鼻」が漱石に激賞され、師事するようになる。以後、時代の寵児となり、1916年の卒業後は、海軍機関学校で英語教官を務める傍ら、次々と作品を発表していく。

歴史写真会「歴史写真(昭和2年9月号)」より

1919年、大阪毎日新聞社に入社し、新聞への寄稿を仕事とする創作活動に専念する。プライベートでは、婚約していた塚本文と結婚し、男児3人に恵まれた。

一見、公私共に順風満帆に見えた芥川の人生だが、1921年の中国視察後から次第に心身の衰えが見え始めたという。神経衰弱や腸カタルを患い、しばし湯治に出かけざるを得なくなった。体調に伴い作品数は減ったものの、自身の代表作となる短編を発表していく。

芥川が発表した作品はほとんどが短編だが、初期と晩年ではだいぶ趣きが違うと言われている。晩年の芥川は、胃潰瘍や不眠症にも悩まされ、さらに1927年には義兄の自殺により、養父母に加えて姉一家を養う必要にも迫られた。心身の衰え、さらに毎日の激務が限界に達していた晩年の作品には、自分の人生を見直したり、生死をテーマにしたものが多い。

苦悩に満ちたこのころには、すでに自殺を考えていたようで「僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた」「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」で知られる遺書を残し、1927年、35歳で服毒自殺。その死は社会に衝撃を与えた。

芥川が、自身の作風が変化した心境に触れた随筆が、この記事で紹介する『侏儒の言葉』だ。

 

「『侏儒の言葉』は必ずしもわたしの思想を伝えるものではない。唯わたしの思想の変化を時々窺わせるのに過ぎぬものである」の序で始まる本作の題名「侏儒」とは、小人や不見識な人の蔑称である(男性の平均身長が158センチ程度の時代、芥川は167センチであった)。

今回、この『侏儒の言葉』の各節を中心に「死ぬことばかりを考へつづけた」 晩年のいくつかの作品から、芥川の思想が 変化した一片をなぞりたい。