「人種は存在しない、あるのはレイシズムだ」という重要な考え方

遺伝学では「人種」は否定されている
磯 直樹 プロフィール

このような立場は米国の遺伝学に限らない。例えば、フランスの遺伝学者であるベルトラン・ジョルダンは邦訳もある著書『人種は存在しない』において、生物進化、医学、薬学、スポーツ、知能などの事例を取り上げながら、「人種」がないということを説得的に論じている。ジョルダンの基本的な立場は、先の声明と同じである。

こうした遺伝学の知見を踏まえ、日本の高校の教科書でも、2010年代からは「人種という区分に科学的根拠はない」という記載が見られるようになった(『新世界史 改訂版 世B313』、17頁)。「人種はない」という考え方は、奇異なものではなくなってきている。

 

「人種」と薬効

遺伝学においては否定される「人種」概念であるが、医学や薬学では積極的に用いることがあるようである。その理由の一つは、体質や薬効について、「人種」区分が有効と考えられるからである。このような立場を分かりやすく示す事件が、2005年に米国食品医薬品局(FDA)によって販売を承認された治療薬BiDilの開発である。

ジョルダンの『人種は存在しない』はこの事件を次のように整理している(邦訳166~174頁)。BiDilとは心不全の治療薬であり、「黒人」ないしはアフリカ系アメリカ人の患者の治療のためだけに開発され、承認された「特定人種用の医薬品」である。この医薬品はしかし、既に存在していた、動脈を拡張させる効果のある二つの医薬品を組み合わせただけにすぎない。

また、BiDilの科学的根拠として用いられる「人種」概念は遺伝学の見地からは完全に誤りであり、この医薬品の開発は商業主義的な目的でしかない。にもかかわらず、全米「黒人」地位向上協会(NAACP)などもこれを支持してしまった。

文化人類学者のジョナサン・X.インダは、最新のテクノロジーと商業主義とレイシズムの結びついた事例として、BiDilの開発と販売を分析している(Jonathan Xavier Inda, 2014, Racial Prescriptions: Pharmaceuticals, Difference, and the Politics of Life, London: Routledge)。