正義はエスカレートすると「いじめ」に変わる

正義はエスカレートすると、時に「いじめ」に変わる
コロナ禍のある時期、地方の感染者が少ない地域で、県外ナンバーの車へのあおり運転や、車への投石、傷をつけるなどの嫌がらせが頻発した。やった人は「自分の町は感染者が少ないのに、感染者が多い町からやってくる車を追い出したかった」と、まるで地域のためにやったあげた感満載で語っていた。

これに対し、各県の知事らは「県外ナンバーの車に対して敵意をむき出しにすることはやめて」「差別や分断は容認できない」などとコメント。その後登場した「過剰な自粛ポリス回避策」に驚かされた。

「私は県内の者です」といったステッカーを張るというものだったからだ。間違わないで、私は県内の人間ですよ、と知らせれば嫌がらせを回避できるかもしれない。しかしそれでは、あおり運転や投石という犯罪行為を半ば認めたことにならないだろうか。

たとえばこのステッカーは「投票しました!」という印で、「投票しようよ!」という仲間に呼び変え、団結力を高める意味もある。しかし「県内のもの」のいうステッカーは、団結力を高めるのではなく、「私には暴力をふるわないでね」という主張だ。そういうステッカーを作ること自体、ルールを守らない人が攻撃されるの仕方ないという意味合いを持ちかねない。単身赴任で他県から引っ越してきたばかりだった人の車が傷つけられたニュースもあった Photo by Getty Images

これは、痒くてマスクを外してしまう子どもに「私はアトピーです」というステッカーを張ればいい、そうすればいじめられないから、という考え方と同じではないか。

自分の正義を振りかざして他者を貶める行為は、私たちの社会の至る所で見受けられる。しかも、ある程度の人数が共鳴すると、それに乗っかる人が瞬く間に増えていく。女子プロレスラーを自死に追い込んだテラハのヘイト書き込みもそうだろう。

「みんなが言ってる」「みんながやってるから」と子どもがよく言う「みんな」や先生が正しいと言ったことはすべからく正しい。したがって、マウントとって先生に言いつけに行く子は褒められ、違うことをする者は「悪」という狭小な見方をされがちだ。そうやって同調圧力に屈する経験を重ねていくと、決められた枠の中でしか物事を考えられず、何より主体的に行動できなくなるように思う。