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WHOと国際政治、健康の定義、箸の上げ下ろしの厄介な関係

戦後の「健康」の歴史とともに

新型コロナウイルスの対応で、WHO(世界保健機関)の評判はめっきり悪くなった。

やれ中国びいきだとか、テドロス事務局長の辞職を求めるとか、アメリカは離脱するのだとか、いやいやブラジルも抜けたがっているのだとか、1年前なら冗談にもならなかったことが大真面目に議論されている。

筆者は陰謀論の肩を持とうとは思わない。テドロス事務局長が前任のマーガレット・チャンより中国びいきだとも思わない。いまのWHOがいまの役割を当たり前にこなそうとすれば、誰がトップにいようとこうなるだろうな、と思うだけだ。

どういうことか。筆者が最近書いた『「健康」から生活をまもる 最新医学と12の迷信』の一部を加筆修正して説明しよう。

テドロス・アダノムWHO事務局長 Photo by Getty Images

無茶な「健康」定義のもとで努力

WHOの役割は、人を健康にすることだ。健康とは何か。WHOは健康を定義していることでも知られている。

健康とはただ病気や虚弱がないだけではなく、身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態である。(WHO憲章)

さて、あなたは健康だろうか。

 

WHOの定義に従えば、健康な人などいない。少なくとも筆者は見たことがない。この定義どおりの健康を目指すなら、あらゆる人が賽の河原の石積みのように健康を目指して無限の努力を続けなければならない。

この無茶な定義に対しては昔から反発も多かったようで、たとえば1992年の本にこう書いてあったりする。

このような、現実には存在しえないような健康観は、次の二つの方向から反撃を受けざるをえなかった。
一つは、「障害をもつ者は健康ではないのか」という反撃である。(略)
WHOの規定でいうならば、「銃を持てる者」が健康であり、「銃を持てざる者」が非健康ということになり、これは戦争賛美の思想ではないか、という議論にまでなったのである。
もう一つは、高齢化社会の到来により、WHOの規定がなんの有効性ももたなくなったことである。平均寿命の驚異的な延びは、WHO的な健康者の増加ではなく、なんらかの病気をもった人たちの増加であった。(略)
WHO的健康観は、障害者と高齢者の双方から反撃され、その価値を失ってしまった。
(斎藤芳雄『死に場所づくり』、151-152ページ)

いかにもごもっともなことだ。

WHOのロゴマーク。医学の象徴である「アスクレピオスの杖」がデザインされている Photo by United States Mission Geneva / Flickr

とはいえ、何かの意味で健康は誰にとってもいいことのはずだし、みんなの健康を目指すための国際組織があるということは、それほど不自然にも思えない。

問題はWHOの健康の定義が強すぎるという点にある。好意的に読めば、「誰でも健康について何かの困りごとは持っているものだから、WHOは人の困りごとを減らす方向にどこまでも努力を続ける」という意志表明とも取れる。

WHOは加盟する194の国と地域に影響力を持っているし、7000人を超える職員を抱える巨大組織でもある。2018年の支出は25億ドル近い。たしかにWHOは何かを努力している。

偉業と後退と

では、WHOの絶え間ない努力とはどのようなものだったか。