内容だけでなく「量」も大きな問題

加えて、ネット空間の社会距離にはもうひとつの問題がある。それは、物理的な社会距離には人数という「量」に限界があるけれども、ネットの社会距離には人数の限界がないということである。物理空間では、ひとりの個人が社会距離を持って対面できるのは詰め込んでもせいぜい数十人ぐらいでしかない。しかしネット空間では数千人から数万人、数十万人、いや無限の人数とでも社会距離を保ててしまう。

おまけにネット空間ではエージェント・スミスみたいな複製アカウントをかんたんに作れる。スミスは本当はたった一人しかいないのに、狭い部屋の中で数百人に膨れ上がって弾幕を浴びせてくるスミスと戦わされるのだ。

少し前に起業家のけんすう氏が、「誹謗中傷かどうかよりも、批判の量のほうが問題じゃないかなという話」という秀逸な記事を書いていた。誹謗中傷と批判の違いを定めるのは難しく、実は問題の根源はそれが誹謗中傷か批判かではなく、「1人1人の批判は適切で、批判の範囲内であり、問題がなかったとしても、批判の量が多すぎると、受ける側のキャパシティが超えてしまう」と指摘した。

公衆距離の遠くにいる群衆なら、その中の幾ばくかの人が罵声を飛ばしてても、壇上の演説者はさほど気にならない(全員が石を投げ始める段階になればそれはまた別だが)。しかし社会距離の近さにいる人たちが無数にいて、その何十人もがいっせいに怒鳴ってくれば、たいていの人はその罵声の距離の近さに驚き萎縮し、身体をすくめてしまうだろう。

内容や言い方もさることながら、膨大な数の罵声を浴びせられたら… Photo by iStock

私がこういう罵声への批判を行うと、必ず「それはトーンポリシングだ!」と決まって言ってくる人たちがいる。トーンポリシング問題については「Twitterで『罵声はやめてほしい』と訴えると『トーンポリシングだ!』と怒る人たちは正しいか」という記事で詳しく書いた。物理空間においてはトーンポリシングの概念の有効さを私は認めるけれども、ネット上で矢のような集中攻撃を誰かに浴びせてる人たちがそれを自己正当化に使うことに問題がある。なぜなら彼らには、ネット空間における「距離」と「数」の概念が欠如しているからである。