『教訓Ⅰ』をカヴァーした杏(TOP COAT GROUP公式YouTubeチャンネルより)

何度も問題になる「音楽と政治」の関係をもう一度考えてみませんか

「日常の歌」にも政治性は宿る

「表現者は政治的なスタンスを表明すべき」か

コロナ・ショックがこの国を覆ってから、政府発対策の不備への批判や、あるいは緊急事態宣言下において強行採決されようとしていた検察庁法案改正への異議申し立てなど、多くの「政治的表明」が様々な人々から発された。

ときに「ハッシュタグ・アクティビズム」などと呼称されるそれらは、かねてより「政治的発言」をネット上で発信してきた人々にとどまらず、「穏健」を自称する一般の人々や、あるいは芸能人を含む著名人をも巻き込み、近年まれに見るオンライン上の「運動」として可視化された。

そうした状況に及んで、特に芸能人に対して、「あなたが政治的な発言をするのは残念」あるいはもっと直接的に「政治的な発言をするな」といった言説が一部から投げかかれられ、反駁するものと賛同するものたちで小競り合いが頻発している様子も多く観察されている。

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一方で、この状況の裏面的展開として、「音楽家等表現者たるものは政治的なスタンスを表明すべきである」、転じて、「日常志向的な表現に終始し政治から逃避するような表現は蔑まれてしかるべき」というような主張も散見される。

本稿の目的は、それに対し批判的な検討を加えてみることだ。私は当然、既に様々なところで識者が論じている通り、「芸能人であろうが誰であろうが、皆等しく政治的な発言・行動をする権利と自由を有する」という考えに与する。とはいえ、「日常志向的な表現が政治からの逃避であり蔑まれてしかるべき」とは思わない。

振り返ってみれば、昨今のコロナ禍以前から、例えば「丁寧な暮らし」、「生活保守」などというワードとともに、「個人的な生活」やそれを表現へ昇華する態度が揶揄される趨勢はあったように思う。

しかし、そうした表現の中には、単に「政治や社会からの逃避」と軽視するわけにはいかない、社会への批判的視点を持ったものも多くあるはずだ。だからこそ、「表現者たるものは政治的なスタンスを表明すべきである」という言説が、越権的に様々な表現を「総括」しようとしていることに危機感を抱いている。「個人的な生活」「日常性」に根差す優れた表現に宿る批判力とは何かを考えながら、論じていきたい。

この国の音楽文化における「日常的」「個人的」表現の現代的嚆矢とはいかなるものか。それを考えてみるには、何をおいても、60年代後期から勃興したフォーク・ムーブメントとその展開を考察してみなくてはならない。