新型コロナウイルスの蔓延に対しては、世界的な視野を失わないことが重要です。
そのことを押さえたうえで、いま(2020年5月現在)国内で起こっていることに目を向けると、政府による緊急事態宣言以降、私たちはファシズム体制と同質といっていいような社会システムに日々直面しています。
本書で前述したように、むろん私はこのシステムを現状ではやむを得ないと思うのですが、しかしこの体制の持つ窮屈さと人間性喪失の姿を記憶しておかなければならないと思います。
いつかコロナが終息した時、全体主義的な社会システムだけが温存されていたというのでは、私たちは次代の人たちから暗愚を指摘されることになるでしょう。
第一次世界大戦下に世界を震え上がらせたスペイン風邪について、もう一度触れてみたいのですが、『内務省史』(大霞会編、昭和46年刊)によると、この流行性感冒についての記述は以下のようになっています。
「大正7年、スペインに発した(保阪注・既述のように発生源はスペインではない)インフルエンザは、たちまち世界各国に大流行を惹起したが、我が国においても同年8月中旬から9月上旬に蔓延の兆しを示して、急激に全国に拡がり、大正10年7月に至るまで前後3回の流行をくり返した。その患者数2380万人で、実に人口の3分の1に達し、死者も38万の大きに達した」
当時の内務省はどのような対応をしたのでしょうか。
このインフルエンザには、明治30年に制定された伝染病予防法の適用はされませんでした。しかし3人の専門医に調査をさせて報告書を作成し、予防法を各自治体に伝えたというのです。それが内務省衛生局の報告の中にも記述されています。
インフルエンザの原因となったウイルスが判明していなかったので、各種のワクチンは期待できず、さしあたりは「患者隔離とともにマスク・うがい・早期受診が奨励」されたといいます。そしてインフルエンザ防疫のために防疫医64人、防疫官吏73人が各府県に配置されました。
長年の鎖国を解いた近代日本にとって、外国からの疫病の流入は相当に厄介だったのです。天然痘は奈良時代から記録があり、日本史を通じて何度か流行がありましたが、明治時代にも数万人の死者を出すような、3回の大流行がありました。江戸時代から何度かの流行があったコレラ、明治中期以来何度かの限定的な流行があったペスト、幕末から流行の記録があるジフテリアなども合わせて、明治初期から防疫のための太政官布告が出されていました。