自殺者が後を絶たない…リアリティーショーは「現代の剣闘士試合」か

あまりに残酷な「感情労働」
斎藤 環 プロフィール

表現と表出の境界に立つリスク

リアリティー番組とうたってはいても、「一種のプロレス」という指摘もあるように、エンターテインメントである以上は演出もある。ディレクターが「こういった方向で」「こんなキャラで」などと言えば、出演する新人タレントは当然忖度もする。きっちりした台本はなかったかもしれないが、すべてが自然体、偶然まかせであるはずもない。

私が危惧を覚えるのもこの点だ。リアルとフィクションのあわいを演ずるということ、表現と表出の境界に立つということは、ほとんど半裸の自分自身をメディアを通じてさらけ出すに等しい行為だ。そこで演じられたキャラがたとえ自分自身の日常的なキャラとは異なるものであったとしても、演じられた感情が100%フェイクということはありえない。

〔PHOTO〕iStock
 

もちろん視聴者は、そうした虚実皮膜のリアリティーを楽しんでいる。演出ありと知りつつも、そこで表出される感情の「生の手触り」を消費している。制作側も細かいコントロールをしないことで、あえてリアルと演出の境界を曖昧にしていたはずだ。

看護師やキャビンアテンダントなど、自身の感情を押し殺して患者や乗客に親切に接する仕事を「感情労働」と呼ぶ。そのさい、うわべだけの演技を表層演技、心からの演技を深層演技というのだが、リアリティショーの演技はそのどちらでもない。おかれた状況は演出されたフェイクであっても、その状況に対して表出される感情は多分にリアルなものをはらんでしまう。つまりこの番組の出演者には、演技することすら許されておらず、特定の状況において指定されたキャラとして「リアルな反応」を表出することを強いられるのだ。これほど労働負荷の高い感情労働はほかに例がないだろう。