【戦場の名言】コロナ禍以上の災厄…「戦時下の日本人」は何を語ったか?

人の死を、美辞麗句では飾れない
神立 尚紀 プロフィール

「やっと、好きな人の霊にお参りができます」

私がインタビューしてきたのは、旧軍人にとどまらず、そのご家族や戦没者のご遺族にもおよぶ。

富樫ヨコさんは、昭和19(1944)年6月19日、20日の「マリアナ沖海戦」で、艦上爆撃機の搭乗員だった夫・高橋寅八少尉を亡くした。ヨコさんは戦後、嫁ぎ先を離れたが、亡き夫を想い続け、いくつかあった縁談も全て断り、戦災で親を亡くした親戚の子供たちを引きとり育てながら、70余年を一人で生きてきた。

 

事実上の結婚生活はわずかな期間だったが、夫の面影は褪せることなく、思い出を語る表情は、いつも少女のようにみずみずしかった。

主人はいつまでも27歳で若いまま。でも、気がつけば私はおばあさんになっちゃって。あの世に行ったとき、私だとわかってもらえなかったらどうしましょう

というのが、ヨコさんにとって、もっとも切実な心配事だった。ヨコさんとは、亡き寅八さんの親友だった零戦搭乗員・原田要さん(中尉)夫妻らとともにハワイ・真珠湾に旅したし、毎年の慰霊祭にもご一緒したが、数年前、プッツリと音信が途絶えたままである。

富樫ヨコさん(右)と、原田要さん夫妻。2001年、ハワイ、真珠湾にて(撮影/神立尚紀)

ただ、女性が一人で生きるのがまだ難しかった時代、夫や婚約者を亡くした女性の多くは、望むと望まざるとにかかわらず、その後、別の相手と再婚、結婚している。戦後60年が経った平成17(2005)年前後に、そんな女性たちが次々と戦没者慰霊祭に参列するようになった時期があった。戦後、結婚した夫が高齢となって亡くなり、

これでやっと、好きな人の霊にお参りができます

と、慰霊祭に出てくる人が少なからずいたのだ。戦争が遺した心の傷の深さ、そして、戦争にも断たれなかった一途な想いを感じるとともに、長年連れ添って亡くなった夫たちが、ちょっと気の毒にも思えた。

なかでも印象に残っているのは、昭和17(1942)年5月7日、8日に日米機動部隊が激突した「珊瑚海海戦」で、空母「翔鶴」の九七式艦上攻撃機搭乗員だった婚約者を亡くした女性と、終戦間際の昭和20(1945)年8月9日、祝言の席に新郎が現れず、親戚一同カンカンに怒っていたところ、戦争が終わってしばらく経ってから、新郎がその日、金華山沖に現れた敵機動部隊攻撃に、「流星」(艦上攻撃機)に搭乗して木更津基地を出撃、戦死していたことを知ったという女性である。

戦争は、全ての人の幸せを奪い、人生を狂わせることを痛感した出来事だった。

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