【戦場の名言】コロナ禍以上の災厄…「戦時下の日本人」は何を語ったか?

人の死を、美辞麗句では飾れない
神立 尚紀 プロフィール

「私はそこにいた」という話以外は疑え

「特攻生みの親」とも呼ばれ、終戦時には最後まで徹底抗戦を叫び、特攻隊員を追って自刃した大西瀧治郎中将でさえ、昭和19(1944)年春、東京・有楽町の朝日講堂で行った「血闘の前線に応えん」と題した講演で、「美談のある戦争はいけない」という歴史観を披露している。

非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのはけっして戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものなのである。たとえば、足利・北条が楠木正成に対して、事実は勝った場合の如きがそれである。

あの場合、足利や北条のほうにはめざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある。だから、勇ましい新聞種がたくさんできるということは、戦局からいってけっして喜ぶべきことではない。この大東亜戦争(太平洋戦争)でも、はじめ戦いが非常にうまく行っていたときには、個人個人を採り上げて武勇伝にするようなことは現在に比べるとズッと数は少なかった。いまはそれだけ戦いが順調でない証拠だともいえるのである。

状況かくのごとくなった原因は、航空兵力が残念ながら量においてはなはだしい劣勢にあり、制空権が多くの場合、敵の手にあるからである〉

大西瀧治郎中将(右)と、副官・門司親徳さん。昭和20年5月、台湾にて

歴史と照らして、戦況を冷静に分析し、悲観的な見通しを率直に吐露しているのがわかる。にもかかわらず、大西がなぜ最初に特攻隊を出し、徹底抗戦を呼号するようになったかについては、拙著『特攻の真意~大西瀧治郎はなぜ「特攻」を命じたのか』(文春文庫)を参照されたい。

この本で私は、大西中将の副官だった門司親徳さん(主計少佐)と、零戦特攻隊員・角田和男さんを主人公に、大西の「真意」に迫っているが、取材中、門司さんが口癖のように言っていた、

その掌(しょう)になかった者がうかつなことを、さも真実であるかのように語るのは間違いの元。『I was there』、私はそこにいた、という以外の話は疑ってかかるように

との言葉は、いまなお心に深く刻まれている。

門司親徳さん(撮影/神立尚紀)

たとえば、下士官兵や初級士官だった人が、自ら見聞きし、体験した範囲のことを語るのは貴重な証言である。だが、そんな人に、立場上知るすべのなかった「戦略」や「大局」を語らせてはいけない。「自分が司令長官ならこうした」などと言い出したら、それは床屋政談と変わらない、という戒めである。

戦争体験者が高齢化で激減したいま、メディアはそんな、「下士官兵に戦略を語らせる過ち」をしばしば犯している。

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