【戦場の名言】コロナ禍以上の災厄…「戦時下の日本人」は何を語ったか?

人の死を、美辞麗句では飾れない
神立 尚紀 プロフィール

「俺たちが捨て石にならなければ」

戦争の渦中、なかでも最前線にあっては、目の前の敵と戦う以外の選択肢はなく、敵を倒さなければ自分が死ぬ。

進藤三郎さんの、海軍兵学校のクラスメートだった鈴木實中佐(1910-2001)は、昭和18(1943)年、蘭印セレベス島(現・インドネシア スラウェシ島)の第二〇二海軍航空隊飛行隊長として着任したさい、オーストラリア・ダーウィンへの出撃を控えて、部下たちに、

この戦争が正しいかどうか、そんなのは後世の歴史家が判断することだ。ここは学校じゃないから、国のため、天皇陛下のため、家族を守るため、そんな観念的なことは論じなくていい。われわれは、敵に勝つためだけに訓練を行う。空戦になれば、向かってくる敵機を叩き墜とす、それだけを考えろ。目の前の敵機との戦いに全力を尽くせ

と訓示している。

鈴木實さん(右写真撮影/神立尚紀)

鈴木さん率いる零戦隊は、豪州空軍のイギリスが誇る名機・スピットファイアと交戦を重ね、双方の記録を突き合わせて見ても、スピットファイア34機撃墜、零戦の損失2機(うち空戦によるもの1機)という、史上まれに見る一方的勝利をおさめた。これからまさに戦いに臨む指揮官としては、鈴木さんの考え方が正解だったのだ。

 

だが、戦況がいよいよ悪化した昭和20(1945)年1月、フィリピンの特攻部隊である第二〇一海軍航空隊飛行長に発令され、任地に向かう途中に立ち寄った笠之原基地(鹿児島県)で進藤さんと再会した鈴木さんは、

なあミノル、俺たちのやりたかったのはこんなことだったのかな

との進藤さんの問いかけに、すぐに返事ができなかったという。二人とも、もとはと言えば、まだ戦争のなかった昭和のはじめ、飛行機に憧れ、ただ自由に空を飛び回りたい一心で、当時パイロットになる早道だった海軍兵学校に進み、念願かなって戦闘機乗りになった。ちょうど一人前の指揮官として部下を率いる立場になったとき、はからずも戦争が始まったのだ。

それとこれとは、いまは別だ。目の前に戦争があるんだから、戦うしかないじゃないか。それは、俺だって勝てるとは思わないさ。だが、俺たちが捨て石にならなければ、誰が敵の本土侵攻を食い止めるんだい? いよいよというときは俺も突っ込む。貴様と次に会うときは二人とも戦死して靖国神社に祀られてるだろうが、お互い、最後までがんばろうぜ」

と、鈴木さんは答えた。

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