【戦場の名言】コロナ禍以上の災厄…「戦時下の日本人」は何を語ったか?

人の死を、美辞麗句では飾れない
神立 尚紀 プロフィール

極限状態で現れる人間性の真価

飯田大尉の言葉を聞いた角田和男さんもまた、記憶に残る言葉をいくつも残している。高等小学校を卒業、予科練から叩き上げた角田さんは、ラバウルや硫黄島で戦い続けた、零戦隊屈指の戦歴を持つ搭乗員だった。戦争末期の昭和19(1944)年11月、兵から累進した「特務士官」の少尉になっていた角田さんは、4機を率いて着陸したフィリピン・マニラのニコラス基地で、

「特攻隊に欠員が出たから、このなかから一人、特攻隊に差し出せ。残る搭乗員は原隊に帰す」

との命令を受け、このなかから一人残れと言われたら自分が残るしかない、と決心、特攻隊の一員となった。

 

攻めるときは海軍兵学校出身の将校(いまで言うキャリア)が先頭に立ち、退くときは叩き上げの特務士官が殿(しんがり)を務めて落ちこぼれを出さないようにする、というのが海軍の伝統でした。もう、負け戦は明らかですから、ここは自分がやるしかない、と」

角田さんは、生きるか死ぬか、極度の緊張をともなう空戰で、敵機を一機撃墜するごとにニッコリ笑うことを心がけていたという。

笑うのが無理なら、口角を上げてみるだけでいい。それだけで、けっこう気持ちが落ち着くものですよ

ところが――。

マニラの湾岸道路から特攻出撃するとき、毎日新聞社の新名丈夫さん(従軍記者)が、片膝を立ててこちらにカメラを向けているのがわかった。それで、ここでニッコリ、と思ったけど、顔がこわばってしまって私は笑えませんでした。しかし、若い搭乗員でニッコリ笑って出ていく者がいる。すごいと思いましたね……

角田さんは、ベテランゆえ爆装(敵艦に体当りする)は命じられず、直掩機(爆装機の掩護、戦果確認)として、襲いくる敵戦闘機から爆装機を守り、仲間が敵艦に突入するのを見届ける、辛く非情な出撃を重ねた。

角田和男さん(右写真撮影/神立尚紀)

大戦末期になると、飛行機の質も低下していて、同じ零戦でも所定の性能が発揮できないばかりか、エンジンのシリンダーが裂けるなど、考えられないような故障を起こすことがよくあった。

でも私は、前線への出撃待機中、飛行機工場で、勤労動員の女学生が一生懸命作業をしている姿を目のあたりにしていますから、彼女たちがつくった飛行機で死ぬなら、たとえ故障でも本望。喜んで死のうと思っていました

と、角田さんは語っている。こんな人を、神も生かすのかもしれない。

戦後、開拓農家となった角田さんは、生活を犠牲にしてまで戦死した戦友たちの慰霊行脚を続け、遺族にも尽くし、かつての部下からは慕われた。逆に、角田さんと同じ境遇で、

「このなかから一人、特攻隊に差し出せ」

と命じられ、自分ではなく部下を差し出したがために、恨みを買って戦後、戦友会に顔が出せなかった人もいる。誰もが角田さんのようにふるまうことはできないと思うが、ギリギリの極限状態でこそ、人間性の真価が露わになるのだろう。

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