本稿の登場人物たち。左上から、進藤三郎少佐、飯田房太大尉、角田和男中尉、鈴木實中佐

【戦場の名言】コロナ禍以上の災厄…「戦時下の日本人」は何を語ったか?

人の死を、美辞麗句では飾れない
太平洋戦争が終わって75年。うち25年を費やして、筆者がインタビューを続けてきた戦争体験者への取材ノートを見返したり、取材テープを聞き返すと、ときどき、ハッとする言葉に再会することがある。そこには、これまで本やテレビではなかなか表に出ることのなかった、そして、筆者自身も取材時には気づいていなかった、当事者ならではの本音が刻まれている。

なかには、現代を生きる私たちにとっても範となるような「金言」も含まれていると思う。それらの言葉は、どこかで世に出さなければ、誰にも知られることのないまま埋もれ、消え去ってしまうことだろう。ここではそんな、日本の先人たちによる「戦争の名言」とも呼ぶべき言葉の断片を拾い集めて紹介したい。
 

「戦死は美辞麗句で飾れるものじゃない」

私は、『決戦』と『手柄をたてる』という言葉が大嫌いでした。決戦というのはこの一戦で雌雄を決するということなのに、決戦だ、決戦だとなんべんも。そんな掛け声で部下をどれほど失ったかわかりません」

と語るのは、昭和15(1940)年9月13日、中華民国空軍のソ連製戦闘機27機を撃墜(日本側記録)、味方の損失ゼロという、零戦のデビュー戦を指揮した進藤三郎少佐(1911-2000)である。

進藤三郎さん(右写真撮影/神立尚紀)

進藤さんはその後、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃で空母「赤城」戦闘機分隊長として第二次発進部隊制空隊の零戦35機を率い、さらに昭和17(1942)年11月以降は、ラバウルの第五八二海軍航空隊飛行隊長として、ガダルカナル島攻防戦がもっとも激しかった時期の零戦隊を指揮した。

この頃、いちばん辛かったのは、搭乗割(編成表)を書くことでした。私が名前を書くとね、そのうち何人かは必ず死ぬんですよ。それを思えばね……」

進藤さんは第一線の飛行隊長として、自らも先頭に立って出撃を重ねている。指揮官機には隊長機を示す二本線が記されていて、敵機と遭遇したときに真っ先に狙われる立場にあり、進藤機も多数の敵機に取り囲まれて苦戦したことがあった。それでも、自分が指名して出撃させた搭乗員がやられるのは、耐えがたい苦痛だったのだ。

「それと私は、『散華』という言葉も嫌いでね。ソロモンの海に水しぶきを上げて墜落した味方の艦上爆撃機、味方機を守ろうと、自らが盾になって敵弾を受け、火の玉になって爆発した零戦の姿が瞼に浮かびます。華と散ると言うが、実際の戦死はそんな、美辞麗句で飾れるようなものじゃない

「こんな馬鹿な戦争を続けていたら…」

進藤さんが率いた真珠湾攻撃第二次発進部隊制空隊で、空母「蒼龍」の零戦9機を指揮した飯田房太大尉は、米軍の対空砲火に被弾し、真珠湾にほど近いカネオヘ海兵隊基地に自爆した。

その飯田大尉が、真珠湾攻撃から遡ること1年2ヵ月の昭和15年10月、中国・漢口基地で語った言葉が、当時部下だった角田和男中尉(1918-2013)を通じて残っている。

飯田房太大尉(中央)。真珠湾攻撃のさい戦死

飯田大尉は、自ら零戦隊を率いて戦果を挙げた成都空襲で、感状(優れた戦果を上げた者に対して、指揮官が授ける栄誉のひとつ。賞状の形で贈られる)を授与されながらも、「こんなことでは困るんだ」と、一人浮かぬ顔をしていたという。勝利の祝宴のなかで、飯田大尉は言った。

奥地空襲で全弾命中、なんて言っているが、重慶に60キロ爆弾1発を落とすのに、諸経費を計算すると約1000円かかる。相手は飛行場の穴を埋めるのに、苦力(クーリー)の労賃は50銭ですむ。実に2000対1の消耗戦なんだ。こんな馬鹿な戦争を続けていたら、いまに大変なことになる。歩兵が重慶、成都を占領できる見込みがないのなら、早く何とかしなければならない。感状などで喜んでいる場合ではないのだ