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西郷隆盛が死後、「神」として祀り上げられた「特別な理由」

神になった日本人(2)

前編はこちら:「西郷隆盛は生きている…」伝説から見えてくる「日本人の精神」

※本稿は、小松和彦著『神になった日本人』(中公新書ラクレ)の一部を、再編集したものです。

語り継がれる「敬天愛人」

西郷隆盛は明治6年(1873)に鹿児島に帰ったとき、参議と近衛都督の職は解かれていたが、なお正三位・陸軍大将の官位は維持していた。しかし、反乱を起こすと同時に官位は剥奪された。また政府が発した征討令は、西郷の名にはまったく触れず、西郷軍をただ「鹿児島県暴徒」とだけ呼んだ。

つまり西郷は「暴徒の首領」にされたのであった。さらに旧主君の島津氏などは、乱ののち、西郷の墓の建て替えを企図した士族たちに、あろうことか「不忠之墓」という碑文を与えたという。

ところが民衆の反応はまったく違っていた。人びとは悲劇的な結末を迎えた西郷の人生に深い共感を覚えた。西南戦争自体の評価はどうあれ、その痛切な死に引きつけられたのである。

西郷の人生の軌跡は、源義経のそれとよく似ていた。義経は天才的な前線指揮官として平氏を滅ぼし、兄・頼朝の鎌倉幕府樹立に多大な貢献をなしたにもかかわらず、頼朝に嫌われて追われる身となり、奥州平泉で藤原氏もろとも滅ぼされた。

一瞬の光芒のようなその人生は多くの人びとの脳裏に刻み込まれ、『義経記』をはじめとするさまざまな物語が生み出され、語り伝えられた。敗者の側に共感を寄せる「判官(ほうがん)びいき」という言葉さえも生まれた。西郷の悲劇的な最期は、その判官びいきの民衆の心情に訴える強い力をもっていたのである。

エドアルド・キヨッソーネによる西郷隆盛像

西郷自刃直後に描かれた西郷の錦絵のなかに、結跏する西郷から後光が発し、それを人びとが仰ぎ見ているという、神や仏のような絵柄のものがあることは前述した。

このことは、西郷を神仏のように崇める視点が、あるいはその萌芽が、極めて早い時点で発生したことを物語っている。これなどはもちろん、民衆の判官びいきの心情と無関係ではあり得ない。

 

加えて西郷の死後、その清廉で無欲な人柄が次第に知られるようになるにつれて、西郷は聖人君子として祀り上げられていく。西郷の人柄を語るとき、例えば「遺訓」のなかの、「児孫の為に美田を買わず」(五)や「敬天愛人」(二十一)という語句がしばしば引かれることに、それがよくあらわれている。

こうして西郷崇拝というものが発生し、それは次第に全国に広がっていったが、これとほぼ並行するかたちで、西郷への思慕の念や供養の気持ちを行為で示すための聖地が、鹿児島市内の西郷の墓を中心に形成されることになった。南洲神社創建もその一つである。