「西郷隆盛は生きている…」伝説から見えてくる「日本人の精神」

神になった日本人(1)
小松 和彦 プロフィール

こうして維新回天を断固たる決意と武力によってなしとげたとき、西郷は「自分の役目は果たした」と思ったのであろう、まだ戊辰戦争が続いている最中に新政府の参与職を解かれたのを機に、郷里鹿児島に帰藩してしまう。

その後、政府からのたびたびの懇請により、明治4年(1871)上京して参議になり、右にあげたさまざまな政策を実行していくのだが、新政府の最高指導者としての存在感は、同じ薩摩藩出身の盟友・大久保利通に比べれば格段に薄かった。

むしろ、すでに時代の歯車とはズレてしまい、本人もそのズレに気づいているが、あえて修正せずに流れにまかせていたような印象を受ける。

そのズレはおそらく、廃藩置県を断行し、天皇を頂点とする近代中央集権国家をつくっていくべき明治新政府の指導者としては、西郷という人はあまりにも藩意識と武士であることにとらわれていた、というところに由来するものであろう。

無言の総帥の最期

そんな西郷にとって、朝鮮への使節派遣問題はおそらく、国家の指導者として死を賭して行動すべき、最後にめぐってきた機会であった。

だが、ここでも廟堂内の政争(いわゆる「征韓論争」)で内治優先派の右大臣・岩倉具視と大久保利通に敗れる。明治6年(1873)11月、西郷はすべての役職を辞して鹿児島に帰り、ここで士族子弟の教育のために私学校を設立したり、同志・子弟とともに吉野台地の開墾に従事したりした。

帰郷のわずか3ヵ月ほどのちの「佐賀の乱」をはじめ、明治9年(1876)には「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など、各地で士族の反乱が相次いで起こったが、西郷は動かなかった。動かないことを方針にしていたようである。

 

ところが、そんな西郷も明治10年(1877)1月末、指導する私学校の若者による政府保管の弾薬庫襲撃事件をきっかけにして。決起せざるを得ない状況に追い込まれた。「西南戦争」の勃発である。

弾薬庫襲撃の報を受けた西郷は、「しまった」と膝を打ったと伝えられるが、確かにそこに至る過程からは、私学校生徒が大久保らの陰謀にはまったという印象が強い。

こうして2月、挙兵はしたものの、装備・兵員ともに差のある政府軍相手の戦いでは、いずれ敗れ去ることは目に見えていた。

熊本・大分・宮崎を転戦すること7ヵ月、敗退と後退を重ねた末に西郷軍は9月1日、薩摩に戻った。そして鹿児島城の背後の城山に籠もること3週間の9月24日午前3時55分、3発の号砲とともに政府車の城山総攻撃が始まった。2時間後、各方面に築かれていた塁壁(るいへき)はすべて破られ、残るは西郷ら40名余りが籠もる岩崎谷だけになった。

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