鬼滅完結で思い出す、漫画史の中で「大泉サロン」が起こしたある革命

トキワ荘から受け継がれたDNA
中川 右介 プロフィール

講談社から小学館へ

萩尾望都がデビューしたのは1969年、20歳の年で、講談社の「なかよし」夏休み増刊号に載った短編『ルルとミミ』が最初に商業雑誌に載った作品だ。

その前に集英社の「別冊マーガレット」に「まんがスクール」に応募して金賞を取ったが、編集者から「こう直して」と助言されても従わなかったので、デビューできなかった。

そこで、知り合いのつてをたどり、講談社を訪ねたのだ。

「なかよし」でも、デビューはしたが、描いても編集者とセンスが合わなかったのか、なかなか採用されない。

一方、同じ学年の竹宮惠子は、すでに講談社と小学館の雑誌に連載を持っていた。

1970年春、竹宮惠子が締め切りが迫り講談社の別館にカンヅメになっていたとき、編集部の紹介で、デビューしていたがブレイク前の萩尾望都がアシスタントをしたのが、2人の出会いだった。

竹宮惠子は雑誌で萩尾望都のマンガを読み、「この作者は男に違いない、こういう人と結婚したい」、と思っていたという。

出会った当時、萩尾望都は福岡県、竹宮惠子は徳島県で親と暮らしていた。

竹宮は萩尾と出会った直後に東京で暮らすようになり、最初に住んだのは西武池袋線の桜台駅の近くだった。

この地を選んだのは、竹宮が師と仰ぐ石ノ森章太郎が住んでいたからだ。

桜台でひとり暮らしを始めた竹宮惠子は、萩尾望都の紹介で、西武池袋線大泉学園駅の近くに住む増山法恵というマンガファンと親しくなった。

 

その増山の自宅のそばに、古い二軒長屋があり、ひとつ空いた。

そこで竹宮惠子は、「女のひとり暮らしはダメ」と親に言われ、上京できないでいた萩尾望都を誘い、2人で暮すことになった。

竹宮と増山は、女性版トキワ荘を目指そうと、盛り上がっていた。

それと前後して、萩尾望都は竹宮惠子から小学館の編集者を紹介してもらい、これまでに講談社でボツにされた作品を見せると、すべて採用してくれた。

小学館の「少女コミック」は1968年に創刊されたばかりだった。小学館は少女マンガでは講談社にも、子会社の集英社にも出遅れていた。

新しい雑誌が苦労するのは、作家の確保である。すでに他紙に描いている人気マンガ家はなかなか描いてくれない。

同時期に少年週刊誌としては後発として創刊された集英社の「少年ジャンプ」も、最初は人気マンガ家に依頼したが断られ、新人の起用に方針を変えて、これが大成功する。

「少女コミック」という場を得ると、萩尾望都は自由に描かせてもらい、従来の少女マンガにはなかった斬新な作品で、人気を得ていく。

講談社は1959年の「少年マガジン」創刊時には、手塚とトキワ荘グループを逃し、1970年にはいったん摑んでいた萩尾望都と竹宮惠子を逃してしまう。

もっとも、講談社には里中満智子をはじめ、少女マンガ家はたくさんいたので、それで屋台骨が揺らぐことはない。