鬼滅完結で思い出す、漫画史の中で「大泉サロン」が起こしたある革命

トキワ荘から受け継がれたDNA
中川 右介 プロフィール

さらに、萩尾・竹宮の2人は、第二のトキワ荘を目指して、共同生活をしていた時期がある。

いうまでもなく、トキワ荘とは、手塚治虫が暮らし、その後に、藤子不二雄の2人、石ノ森章太郎、赤塚不二夫が6年にわたり暮らしていたアパートだ。

それに影響されて、竹宮惠子は萩尾望都を誘い、練馬区大泉の古い二軒長屋で共同生活を始めた。それが、通称「大泉サロン」である。

トキワ荘に始まったマンガのある部分は、大泉サロンの2人に引き継がれている。

マンガ週刊誌時代の始まり

1959年春に「週刊少年サンデー」「週刊少年マガジン」の2誌が創刊され、週刊誌時代に突入した。

先に少年週刊誌の創刊を決めたのは小学館で、「少年サンデー」の編集者がすぐに手塚治虫を訪ねて連載を依頼、承諾してもらった。続いて、トキワ荘グループの寺田ヒロオと藤子不二雄の連載も決まる。

 

講談社が「少年マガジン」創刊を決めて編集者が手塚を訪ねると、週刊誌2誌は無理だと断られた。藤子不二雄のもとを訪ねたのは、小学館に連載を引き受けたと返事をした数日後だった。

トキワ荘で暮らすうちに、藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎は人気が出て、仕事も増え、アシスタントを雇うようになり、お金も貯まった。同年代の若いサラリーマンの何倍もの収入があった。

彼らがトキワ荘に入居したときは月刊誌、1961年秋から冬に出るときは週刊誌の時代になっていた。

トキワ荘を出た後、藤子不二雄の2人は川崎市に住んでいたが、石ノ森と赤塚はその後もトキワ荘の近くに暮らし、そして石ノ森は桜台に住居兼仕事場を建てた。

手塚治虫はトキワ荘を出た後、雑司が谷、初台と引っ越したが、1960年に西武池袋線の富士見台駅近くに住居兼仕事場を建て、ここに虫プロダクションもできる。

手塚がこの地を選んだのはアニメーションを作るには、大泉にある東映動画のそばがいいのではないかと考えたからだった。

こうして手塚治虫は西武池袋線に戻った。石ノ森章太郎も、それを意識したのかどうかは分からないが、西武池袋線の桜台を住居兼仕事場の地に選んだ。

そして、手塚、石ノ森が西武池袋線沿線に暮らしたのを追って、萩尾望都と竹宮惠子も、この沿線に住むようになる。

西武鉄道には何の戦略もなかっただろうが、この鉄道は、マンガとアニメの歴史を乗せて走っているのだ。