鬼滅完結で思い出す、漫画史の中で「大泉サロン」が起こしたある革命

トキワ荘から受け継がれたDNA
中川 右介 プロフィール

最初に少年マンガ週刊誌に描いた女性マンガ家は矢代まさこと思われる。1968年に「少年マガジン」に読み切りを描き、以後も、「少年ジャンプ」「少年サンデー」「少年チャンピオン」に74年頃まで、読み切りを描いていた。

続くのが里中満智子で、1974年に「週刊少年マガジン」に連載していた水島新司の『野球狂の詩』のエピソードのいくつかを合作し、それが好評だったので、75年12月から『さすらい麦子』を連載した。しかし、連載は半年ほどで終わり、以後も続かなかった。

次が竹宮惠子で、週刊誌ではなく、月刊の「マンガ少年」に1977年1月号から『地球(テラ)へ…』を連載し、長編アニメ映画にもなるほど、話題になった。

地球へ

それを追って、萩尾望都が1977年8月から、「週刊少年チャンピオン」で光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』を連載した。

当時、「女性マンガ家が少年雑誌に描く」ことそのものが「事件」だった。

以後も「少女マンガでデビューして少年マンガへ」というルートで描く女性マンガ家は、少ない。

萩尾望都、竹宮惠子も、少年誌に継続して描くことはなく、少女雑誌に戻った。

一方で、高橋留美子のように最初から少年マンガを描く女性マンガ家は多くなったが、前述のように男性的ペンネームを使うことが多い。

「萩尾望都」は少女雑誌でデビューしたが、当時は男性マンガ家が少女マンガを描くことも普通だったので、その名前から男性だと思っていた読者もいる。

たしかに、当時としては「子」とか「恵」「代」「美」がつかず、女性の名前らしくはない。といって、男っぽくもないが。

 

手塚・石ノ森の正統な後継者

昨年出した、『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)では、「少年サンデー」「少年マガジン」創刊されたところで物語を終え、あとは後日譚とした。

手塚治虫とトキワ荘

おかげさまで好評だったので、その後日譚部分を本格的に書こうかとも考えた。手塚治虫を中心にした少年マンガのその後、あるいは青年マンガの話である。しかし、1960年代以降のマンガはかなり拡散していくので、焦点がしぼりにくい。

いずれ書く機会があるかもしれないが、その前に、手塚・石ノ森の正統な後継者として、萩尾望都と竹宮惠子を位置づけるべきと感じ、『萩尾望都と竹宮惠子 大泉サロンの少女マンガ革命』(幻冬舎新書)を書いた。

なぜ、この2人なのか。

萩尾望都と竹宮惠子は昭和24年度生まれで、彼女たち以外の、山岸凉子や大島弓子などとあわせて「24年組」として語られることが多い。そのなかで、萩尾望都、竹宮惠子に共通するのは、小学校の頃から、手塚治虫と石ノ森章太郎のマンガ、それも少年マンガを好んで読んでいたことだ。

萩尾望都と竹宮惠子

別に正式な学校があるわけではないが、萩尾・竹宮は手塚・石ノ森スクールの生徒なのである。

手塚・石ノ森スクールであるだけでない。2人とも、「女にはSFは分からない」と言われていた時代から、SFマンガを描いていた点で、他の女性マンガ家と異なっていた。

それゆえに、少年誌でも2人を受け入れることができ、SFマンガである『地球へ…』と『百億の昼と千億の夜』が生まれた。

手塚治虫・石ノ森章太郎を愛読していた60・70年代の少年にとって、この2人は少女マンガのなかでは、その絵も、コマ割りやストーリーの運び方も、なじみのあるものだったのだ。