本人が満足していれば貧乏でもOK?「理想の平等」を考える

常識を揺さぶる「悪魔の法哲学」
住吉 雅美 プロフィール
 

ドゥオーキンが言いたいことはこうだ。個人はどのように生きるかについて、それぞれ異なった価値観や嗜好を持っている。ある人はたくさんの食料や快適な小屋を入手するために朝から晩まで労働する生き方を好むし、別な人はその日暮らしで絵を描いたり歌ったりと好きなことをしながら生きていきたい。

このように、生き方の違いによって必要な資源が人によって異なる。各人にとって必要な資源は市場における取引で最終的に入手され、「他人の所有物を羨ましく思わなくなる」まで競売すれば、真の平等が実現されるのだ

本人が満足していればそれでいいのか?

他人の所有物を羨ましく思わなくなった時に、資源分割の平等が達成されたことになる。これはこれで平等の一側面を示す見解だが、しかしドゥオーキンの思考はそこで終わるわけではない。

世の中には他人が何を持っているのかを強烈に意識する人と、そんな気は全くなく、自分の現在の持ち物で満足できる人がいる。それに趣味嗜好は人それぞれだから、はてしなくたくさんのブランド品を必要とする人もいれば、100円ショップのちょっとしたグッズで充たされる人もいる。

世に貧乏舌という表現がある。飲食に関しては安いもので充分、何を食べても美味しいと感じられるタイプの人を指す。こういう人は飲食にお金がかからないし、何でも美味しくいただけるから幸せだ。

たとえば友人が「世界一の神戸牛のディナー・コースを10万円で食べちゃったよ」と自慢しても、1ミリも羨ましく思わない。「この世でこれが一番うまいわ〜」とキン肉マンばりに牛丼をかき込んで充分幸せなのだ。高価な食事を奢おごられても、逆にありがた迷惑に思う。

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人が財の消費から受ける満足のことを、経済学的には「厚生」と呼ぶ。前項の「資源の平等」という議論は、ひとつ間違えると、各人がそれぞれの嗜好のままに幸せを感じていればそれでいいのだ、つまり厚生がすべての人において実現されていれば平等ということなのだ、と誤解されるおそれがある。

でもどうだろう、高価な食事じゃないと満足できないグルメにはランチ代1万円を支給するが、貧乏舌の人に、「本人がそれで満足なんだからいいじゃん」と500円しか支給しない、ということでよいだろうか?