本人が満足していれば貧乏でもOK?「理想の平等」を考える

常識を揺さぶる「悪魔の法哲学」
住吉 雅美 プロフィール
 

資源の分配には「羨ましさ」を考慮すべき

他人より自分が低く扱われるのは絶対に嫌だ、という人間感情は、さらに、他人が持っているのに自分が持っていない物について「ああ羨ましい。あれ欲しいな〜」と願う羨望にもつながる

この気持ちは日本人ならよくわかるだろう。1960年代の高度経済成長期には、いわゆる「3C」(カラーテレビ、自動車、クーラー〔エアコン〕)を手に入れることが全国民の夢だった。

別にこれらを持っていないからといって人間として劣っている訳では全然ないのだが、「お隣さん、カラーテレビ買ったらしいわよ。うちはまだ白黒で恥ずかしいわ、あなた」とか、「○○君ちに行ったらクーラーってのがあってすごく涼しかったよ。いいなあ、うちにもあればもっと勉強するのにな〜、ねえパパ」とか家族にせがまれて、ボーナス握りしめて電器店に走った人々が多かったのである。

現代だってそうだ。新型スマホが発売される度に買い換える。これまでのヤツがまだ使えるのに。ガラケーだって使えるのに、「何か時代遅れみたいでかっこ悪い」と無理してスマホに乗り換える。しかしいろんな機能が使いこなせず、月々の料金も高いし……ということで、結局ガラケーに戻る始末。

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ドゥオーキンの平等論で面白いのは、政府が国民に資源を平等に分配すべきだというときに、この「他人が持っている物が羨ましい」という気持ちも考慮に入れるべきだとしているところである。そこで彼は、真の資源の平等を実現するための方法として、次のような空想をめぐらす。

難破船の多数の生存者が資源の豊富な無人島に漂着した。これからしばらくは皆、この島で生活せねばならない。そこで彼らは、その島にある諸資源(ヤシの木、魚がいる岩場、作物が採れる土地など)を平等に分割したいと考えた。さて、どうする?

彼らはまず全員、貨幣の代わりになる貝殻を同数持つ。そして、とりあえず今自分が手に入れうる資源をどんどん所有する。全員が資源の集まりを所有したら、今度はそれらを競売にかけるのだ。そして、全部の資源がいったん売りさばかれる。

しかし、ここで終わりではない。とりあえず購入した資源が要らなくなった、もっと欲しいものが出てきたなどの理由で、また売りに出し、買い取る人々が出てくる。こうして競売は続き、この長い過程の末に、全員とも「自分が持ついろいろな資源の束よりも、他の誰かの資源の束の方が羨ましいと思わない状態」に至る。これこそが資源の平等状態だ、と。

トレーディングカードをイメージしてもらうとわかりやすいだろう。スポーツ選手、アニメ、アイドルなどを題材とした数百種類のカードが作られ、それらの複数枚が中身の見えない袋に封入され、パックと呼ばれて売られている。愛好家はまずはパックをひたすら購入し、その後、各人は自分の収集目的によって手持ちのカードを他の人々と取引する。そしてコンプリートしたら、もう他の人のコレクションを羨ましいとは思わなくなる。