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表参道が燃えた日…3600人死亡「山の手大空襲」を振り返る

「どの方角も真っ赤」「焼死体の山」…

東京大空襲といえば、一般には1945年3月10日のそれが知られている。米軍の戦略爆撃機B29・325機が隅田川沿岸の下町を襲った。およそ1665トンの焼夷弾をばらまき、10万人が殺された。歴史の教科書に書かれ、体験者によるノンフィクション、小説や映画、テレビドラマなどでも繰り返し描かれている。

東京は敗戦まで130回に及ぶ空襲を受けている。そして、「大空襲」は3月10日だけでなかった。今回はさほど知られていない、もう一つの「東京大空襲」=山の手大空襲を振り返りたい。

「無差別爆撃」の入念な計画

東京、港区と渋谷区にまたがる表参道は、都内でも屈指の繁華街だ。明治神宮から北東へ。しゃれたレストランやカフェ、高級服飾店などが建ち並ぶ。新型コロナ禍の現在、例年に比べれば人通りは少ないが、いつも通り並木道の新緑がまぶしい。

1キロほど進むと、青山通りとの交差点に至る。巨大な灯籠2基が参道をはさみ向かい合って立っている。戦前からのランドマークで、今も待ち合わせの若者などが集う。

その灯籠がところどころ黒ずみ、欠けていることに気づく人がどれくらいいるだろうか。今から75年前の5月25日、米軍の無差別爆撃による阿鼻叫喚を伝える遺構である。

表参道に立つ大灯籠。台座の一部が欠け、ところどころ黒ずんでいるのは山の手大空襲の痕跡だ

サイパンなどマリアナ諸島を基地とするB29の日本本土空襲は1944年6月16日未明、北九州で始まった。そのしばらくは精密爆撃、すなわち民間人住宅街を避けて、軍事施設を狙う作戦が続いた。それを、両地域を区別しない「無差別爆撃」に切り替えたのは、カーチス・ルメイ将軍である。

計画は入念だった。回顧録『超・空の要塞 B29』(航空史家・ビルイェーンとの共著・朝日ソノマラ)によれば、まず機銃を減らしその分搭載する爆弾を増やした。日本の防空体制が貧弱であることを見越しての措置だった。

さらにそれまでの高高度爆撃を低高度爆撃に切り替えた。燃料消費が少なくなるため、これも搭載爆弾の増加につながった。