1989年の近鉄バファローズ「仰木マジック」でも届かなかった、あと1勝

当時の主力・金村義明、山下和彦が語る
週刊現代 プロフィール

「マムシの山下」こと、捕手の山下和彦が言う。

「当たり前のことをできないと怒りますけど、あとは本当に伸び伸びとやらせてくれる。ミーティングで細かく指示を出すということもしない。『やるのはお前らやけど、責任は俺が取るから』というのが口癖でした。一方、若手を競争させるのも上手かった。キャッチャーも僕の他に光山(英和)、古久保(健二)といて併用されていたので、なんとか頭一つ抜け出して正捕手の座をつかみたいと必死でやっていた。選手に自らやる気を出させる術を知っている人でした」

近鉄の代名詞だった主砲・ブライアントも、仰木のもとで開眼した才能だった。

'88年に来日し、中日に入団したものの、変化球に対応できず二軍でくすぶっていたブライアントをシーズン途中で譲り受けた仰木は、「いくら三振しても怒らないから、フルスイングしろ」と命じて、試合に出し続けた。結果、'88年には74試合の出場ながら、34本塁打を記録。押しも押されもせぬ主砲となった。

 

余計な口出しはせず、選手に任せる。それは試合中のみならず、プライベートも同じだった。

「西鉄での選手時代、ご自身が派手に遊びまくっていたぶん、僕らにも自由にさせてくれました。あるとき、チームの門限を過ぎた後で、麻布あたりの店で仰木さんとばったり出くわした。こちらがそそくさと立ち上がると、仰木さんは『どこ行くねん、もっと飲め!』と、全員に酒をご馳走してくれた。その代わり、『次の日は早くグラウンドへ出て、いつもより汗を流せよ』と。選手を一人の大人として扱ってくれた。これを意気に感じなければ男じゃないな、と思いました」(前出・金村)