新型コロナの「自粛警察」が抱いている「恐怖」の構造

アルコール、ドラッグの歴史から考える
渡邊 拓也 プロフィール

排除が生まれるとき

振り返ってみれば、19世紀の(病としての)薬物依存やアルコール依存は、当初、当人に責任はないと考えられていた。あくまで「病の犠牲者」であり「治療とケアの対象」だったのだ。

例えば現代の薬物依存者には、「患者」と「犯罪者」という二重の定義が与えられているが、このうち後者は、20世紀の初頭以降に生み出されたものだ。つまり元々あったはずの薬物中毒という病への危険視が、いつの間にか薬物中毒者(その人物)への危険視へと、横滑りを起こしたのである。

 

その原因はいくつかあるが、感染症の疑いをかけられたことも、もちろん無関係ではなかっただろう。

19世紀末にデジェネレッサンス概念を用いた精神科医マニャンは、「原則として遺伝的に変質した者に責任はないが、彼らは社会や人類に対する責任を負っている。なぜなら有害だからだ」といった奇妙な論理でもって、社会的弱者への非難を正当化していった。

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ひるがえって、現代の新型コロナ患者も、どこか似たような境遇に置かれていないだろうか。

多くの人が正当に「患者」として扱われる一方で、感染者が自宅に投石を受けたケースもあった。また強い自粛ムードの中、「外出する人々」や「マスクをしていない人々」への非難は、どこか過剰なものになっていないだろうか。これらも元を正せば、病と病者との混同という誤謬に由来するものである。