新型コロナの「自粛警察」が抱いている「恐怖」の構造

アルコール、ドラッグの歴史から考える
渡邊 拓也 プロフィール

未知なるものへの恐怖

ある病が拡大を見せることと、それが伝染病であることとは、別々の二つのことであるはずだ。だが上記の例で見たように、特にその原因やメカニズムが不明な時期には、両者の混同はしばしば見られる。感染への恐怖や、拡大への社会的不安がそうさせるのである。

話を現代へと戻そう。欧米諸国が次々とロックダウンに踏み切ったのは——もともとマスクをつける習慣がなかったのを差し引いて考えても——消毒液による殺菌などの、衛生状態を清潔に保つ方法が、さしたる効果を上げなかったことが直接の引き金だっただろう。

ただ、さらに一歩踏み込んで述べるならば、より根本的な原因はこの病の未知性にある。今回「専門家」たちが相矛盾することを語り、各国政府の対応が後手に回るといった現象がしばしば見られたのは、端的に言えばこれが未知の病だったからだ。データの蓄積がないのである。

過去のデータの積み上げを基に未来予測を行うのは、実証的な科学の基本的態度であり、今日ではビッグデータを用いた分析が華々しくなされている。しかしそれは裏返して言えば、統計データに頼りすぎた現代社会が、全く新しいケースに対しては無力化しているということでもあった。

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データとエビデンスを偏重するこの現代社会は、既知のものに対しては強いが、未知なるものに対して脆弱な、弾力性の弱い社会になってしまっているのである。

未知なるものへの恐怖とは、すなわち、その振る舞いが予測困難なものへの恐怖である。社会学者アンソニー・ギデンズは『モダニティと自己アイデンティティ』の中で、近代以降の「逸脱」は社会的コントロールの観点から再定義されたと述べたが、これは言い換えれば、予測不能な動きを見せコントロールが難しいものに、「リスク」のレッテルが貼られ、人々の不安や回避行動、ひいては社会的排除を引き起こしていく傾向を指していた。